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こうみょうじ|高野山真言宗福寿山

光明寺
群馬県 東小泉駅

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光明寺について

松本古墳群の中にある小さな無住寺
連絡先を見ると、邑楽町の南にある千代田町の金剛寺の兼務寺らしい
石打城という南北朝~戦国期の城の守り寺として城内に建てられたという

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くし
くし
2026年05月18日(月)1867投稿

【合祀を拒んだ石打の神々】番外編

社氏稲荷神社で、邑楽町石打地区の既知の神社は全て詣でました⛩️🙏
ではお寺はどうか?と調べてみたのですが、石打ではあまり仏教は流行らなかったのか、それともこぶ観音明言寺の威光が強すぎるのか、明言寺の他には端の方にある邑楽七福神の慶徳寺があるだけで、単独御堂すら見つからない💫
・・・そういえば、田舎にはだいたいある路傍のお地蔵さんや馬頭様、庚申塔なども全く見当たらなかったな💧 これも石打の信仰の特殊性😳❓️
そんな中、唯一見つかったのが八王子神社の近くのこの小さな無住寺で、ここを石打巡拝の〆とすることにしました。

ここは、南北朝~戦国時代に松本古墳群の中にあった石打城の守り寺として建てられたそうで、だいたいの創建年代と由緒はわかっているのですが、本尊がわからない😖💫

由緒にも一応載せましたが、おうらの広報に光明寺の本尊に関する話が出てきて一瞬おおっ💡😆と思ったのですが、これが読み進めていくうちになぜか内容が社氏稲荷神社の本尊の話にすり変わってしまっている。。。( °д°)ポカーン
まぁ、どうもこれは古老の聞き語りをそのまま載せたものらしいので👴💧・・・仕方ないね😅w

石打城の話に出てくる貝吹山や首塚も、名前だけは出てくるものの、具体的にどの古墳に相当するかは書かれておらず。
貝吹山は「一番高い山」となってるので、たぶん城の物見になってた松本3号墳こと八王子神社ではないかと⛰️⛩️
首塚は不明・・・まぁこちらは知らない方が良いのかもしれんけど👻💀😰w

光明寺(群馬県)

石打城の地図
光明寺は城の東端付近にあったらしい

光明寺(群馬県)

お寺の境内よりかなり南側で、古い参道入口を偶然見つける💡
参道を通って行こうかと思いましたが、現在では民家の庭先を掠めてるので、左の車道から行くことにしました😅

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写真

光明寺(群馬県)
自然石の素朴な五輪塔が一つ
光明寺(群馬県)
本堂 雨戸が閉じられてて本尊の目視確認はできず😫
光明寺(群馬県)
境内右側に大きな石材がゴロゴロしてました 石打城の残骸か? それとも消失した古墳の葺き石だったとか? 本堂が比較的新しいので、もしかしたら旧本堂の残骸なのかも
光明寺(群馬県)
道内はすりガラスで見えず😖
光明寺(群馬県)
5号墳の横に薬師堂
光明寺(群馬県)
こんな小さな弁天様なのに、なぜか注連縄で大がかりな生鳥居が作られてたり・・・ もしかしたら5号墳が例の首塚で、これで結界張ってるとか⁉️👻💀😱💦
光明寺(群馬県)
古い石祠と新しく建てられたらしい名号のみの弁天様
光明寺(群馬県)
境内南西角にある松本5号墳には小さな弁天様が祀られています
光明寺(群馬県)
右の石碑は磨耗して読めず💫 ・・・というか削り取られたんじゃないかこれ? 横の建立年だけは妙にハッキリしてるし💧
光明寺(群馬県)
数は少ない代わりに、片膝立てた珍しいお地蔵なんかがあったり💡
光明寺(群馬県)
庚申信仰、地蔵信仰、月待ち、馬頭様・・・そういった民間信仰は石打ではほぼ流行らなかったらしい💫 守護神が身近すぎて他の信仰など不要だったのか・・・仏教はこぶ観音だけで事足りてたのか・・・はたまた廃仏毀釈が激しかったとか💦
光明寺(群馬県)
石打には石仏や庚申塔がほとんどなかったのですがさすがに寺の境内にはありました それでも他の地域のお寺に比べると非常に少ないような気がする・・・
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光明寺の基本情報

名称光明寺
読み方こうみょうじ
電話番号0276-86-2817

お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご本尊《本尊》不明
《堂宇》薬師堂
《諸尊》弁財天
山号福寿山
宗旨・宗派高野山真言宗
創建時代不詳 少なくとも延宝八年以前
文化財

石打光明寺付近出土板碑(邑楽町指定重要文化財)

ご由緒

松本古墳群の中にある小さな無住寺。
境内の南西角には松本5号墳があり、ここには弁天様や薬師堂が祀られている。
南北朝時代から戦国時代に掛けて、この付近には石打城があり、光明寺は城の守り寺として城内に建てられたという。
城の東側は全部寺の土地で古墳がたくさんあり、中でも有名なのは貝吹山と首塚であった。
ある戦いで石打城が攻められた時、敵軍は一本木・藤川方面(北東から東側)から夜討ちを掛けられ、光明寺や正伝寺(現在の慶徳寺)は敵の間者に放火され焼け落ちてしまった。
敵軍はその火を目当てに攻め立てたのでとうとう落城し、敵味方双方に多数の戦死者が出た、その首を埋葬したのが首塚である。
貝吹山は古墳群の中で一番高い山で、その上に登って兵士達を鼓舞するために法螺貝を吹いたのでその名がついた。
後に寺は再興したが、過去帳などは落城時に全て焼失してしまい古いことはわからなくなってしまったという。
(広報おうらより 一部抜粋)
※貝吹山、首塚については、現在のどの古墳に当たるのか不明。
一説によると首塚は、当時境内にある松本5号墳だという。
――――――――――――――
【石打城の歴史】
南北朝時代に石堂右馬丞によって築城される。
この石堂右馬丞は、足利氏の支族の中に石堂(石塔)氏を称している一族がいることから、それに連なる人物だと思われるがよくわかっていないらしい。
その後は石打兵部少輔という人物が城主となるが、この人物についてもよくわかっていないという。
(一説にはこの石打兵部少輔が「石打」という地名の由来とされる)
戦国時代になると、石打城には足利長尾氏の家臣である北爪助八が置かれた。
上杉謙信が関東出兵を行った際、この地域に勢力を伸ばしていた小泉城の富岡氏に対して置かれたのが北爪助八であり、これによって富岡氏も上杉謙信に属することになった。
――――――――――
【社氏稲荷神社との関係】
沖之郷(太田市)に茂木嘉十という人がいた。この人は社氏稲荷神社の熱心な信者だった。
ある夜のこと、稲荷様が枕元に現れて「私は今、光明寺に居候しているが、なんとかして元の社に戻りたい」と言ったそうだ。
いきさつはわからないが、社氏稲荷にあった稲荷様が、いつの間にか誰かの手によって光明寺に移されたらしい。
曲がりくねった細い道を教えられたとおりに辿っていくと光明寺に着いた。 そして、よく調べてみたら夢のとおり本尊様が見つかった。
石打の人たちと相談し、もと来た道を引き返して、無事本尊様を社氏の社に祀り直したという。 その時の書類が今でも残っている。
(広報おうらより)
※原文では、光明寺の本尊についての話として始まっているのだが、いつの間にか社氏稲荷の本尊の話にすり変わってしまっている。
地元の古老の聞き語りをそのまま書き起こしただけのものらしい。

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