真言宗泉涌寺派
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【仙容山(せんようさん)光明坊(こうみょうぼう)】
本尊:阿弥陀如来
宗派:真言宗泉涌寺派
開基:行基
光明坊は、広島県尾道市(生口島)瀬戸田町御寺に位置します。730(天平2)年、第45代 聖武天皇(在位:724-749)の勅願により行基が建立したと伝わります。
平安時代の末 後白河法皇の第三皇女である如念尼公が入寺、1157(保元2)年に法皇から生口南の庄を光明坊の寺領として寄進されています。このことからこの辺りの地名が「御寺(みてら)」と称されるようになり現在に残っています。
建永の法難後、松虫・鈴虫は如念尼公を頼り光明坊に移り住みます。ここで、念仏三昧の余生を送ったとされます。讃岐に流刑となった法然上人が両名のことを案じて来島されているようです。
悲しい物語が伝わる京都の安楽寺を訪れたとき、松虫・鈴虫はその後、瀬戸内の島に移り住んだと知り、生口島を訪れました。

【山門】

【石柱】

【手水舎・十三重石塔婆】

【不動堂】
天皇家ゆかりのお寺。屋根には菊のご紋の瓦が葺いてあります。

【本堂】

【玄関】



【石柱】

【修行大師】

【鐘楼】

【石槽】

【五輪石塔】
左から、法然上人、後白河皇女如念尼公、松虫、鈴虫の墓碑。

【十三重石塔婆】
国の重要文化財。


【御寺のイブキビャクシン】
法然が光明坊に訪れたとき、法然が自らの杖「白檀の杖」を当時の境内に差し「わたしが弘める教えは、ただ南無阿弥陀仏と唱えていれば誰でも苦しみや悩みが消えて救われるという教えであるが、古い仏教を信じている人々は、この教えをまちがっていると反対している。もし、本当にこの教えが正しければ、この杖から芽が出、枝が出てくるだろう。」という意味の言葉を残しました。しばらくして、杖から枝が生えそれが大きく育っています。

【イブキビャクシン】
大きくねじ曲がっています。こんなにねじれている木、見たことありません。

【外から見るイブキビャクシン】

【外から見るイブキビャクシン】
枝が境内地を越え畑へ延びていき日がかげることを心配した村人が大樹の枝を払うことを相談していましたが、一夜にして枝が向きを変え境内へと延びていったといわれています。

【十三重石塔婆】
烏が上手に留まりました。

天平年間(729年~749年)聖武天皇の勅願により僧・行基が創建したと伝わる。
後白河上皇より生口南庄を寺領として寄進され栄えた。
後白河上皇の皇女・如念尼、法然上人、松虫姫・鈴虫姫の墓とされる五輪塔が残る。
松虫姫、鈴虫姫は後鳥羽上皇の寵愛を受けていたが上皇が熊野詣で不在中、こっそりと法然の弟子住蓮・安楽の念仏会に出かけそのまま出家してしまった。
これに上皇は激怒し、関係者が処断された。法然は四国に流罪となっている。(承元の法難)
松虫姫、鈴虫姫は如念尼を頼って瀬戸内海の生口島光明坊に移り、念仏三昧の日々を送りこの地で亡くなったという。
1294年忍性の建立とされる十三重石塔は重文指定されている。

本堂

本堂

不動堂

石槽(石棺)

石槽(石棺)

五輪塔(法然上人・如念尼・松虫・鈴虫墓)

宝物殿



十三重石塔

十三重石塔

十三重石塔

十三重石塔

山門

山門
境内・文化財
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| 名称 | 光明坊 |
|---|---|
| 御朱印 | あり |
| 限定御朱印 | なし |
| 電話番号 | 08452-8-0427 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
巡礼の詳細情報
| せとうち七福神 第4番 |
|---|
詳細情報
| 宗旨・宗派 | 真言宗泉涌寺派 |
|---|
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