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わけじんじゃ

和気神社
鹿児島県 中福良駅

御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
あり
パーキング
駐車場
-

和気神社について

和気清麻呂公流謫の地。
境内には白イノシシの”和気ちゃん”がいます。近くに名勝「犬飼滝」、
和気公園には藤の木が約100本あり、4月中旬~5月始めには「藤まつり」があります。

おすすめの投稿

きどっち
2024年01月19日(金)
1160投稿

毎年4~5月には藤まつりに多くの方が訪れる神社です。

今回初めて参拝させていただきました。
まずとても広い駐車場にビックリ!
冒頭にも書いた藤まつりに大勢の方が来られるそうで、駐車場の大きさにも納得です。
そして、車を停めまず最初に目につくのが大きな絵馬。
猪の和気清麻呂公が描かれています。

和気清麻呂公は、天平5年(733年)に備前の国(岡山県和気郡)の生誕で、奈良の都で武官として出仕、近衛将監となります。
神護景雲3年(769年)、「僧侶・道鏡を天皇にすれば、天下は太平になる」という大分・宇佐八幡宮のご神託として朝廷に伝えられました。
この神託を確認するため称徳天皇は清麻呂公を宇佐八幡宮に向かわせ、事実を確認させました。
すると、「わが国は初めから君臣の分が定まっている。道にはずれた者は速やかに排除せよ」という神託を得て、これを奏上したことで道鏡の野望を阻んだ。
そのため道鏡は激怒し、道鏡に肩入れしていた称徳天皇は、清麻呂公を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という不名誉な名前に改名させ、さらに大隅国へ流刑に処せられました。
道鏡は、大隅国へ向かう途中の清麻呂公を暗殺しようとしますが、300頭もの猪が現れて清麻呂公の周りを守ったそうです。

清麻呂公は宇佐八幡宮に向かう前に、道鏡から天皇に即位した際には清麻呂公を大臣の位を与えるといわれていたそうです。
しかし清麻呂公は「世の中の人がどうあっても、自分ひとりだけは天地の澄みきった心に照らして恥じることのないように、また自粛自戒を心がけ、謙虚に正しい道を歩もうという気持ちから、
『我独慙天地』という書を残しているそうです。
御朱印にもこの言葉が記されていました。

和気神社の絵馬

大絵馬
縦8.3m 横12.5m

和気神社の鳥居
和気神社の手水

手水

和気神社の本殿
和気神社の狛犬

狛犬ではなく一対の霊猪

和気神社の狛犬
和気神社の本殿

拝殿

和気神社の本殿

本殿

和気神社の本殿
和気神社の歴史
和気神社の歴史
和気神社の絵馬
和気神社の建物その他
和気神社の建物その他

こちらで飼育されていた白猪の和気ちゃんですが、令和4年12月に亡くなったそうです。

和気神社の建物その他
和気神社の歴史
和気神社の建物その他

そしてこの地は坂本龍馬とお龍の新婚旅行の地

和気神社の御朱印

御朱印は全部で3種類
全て書置きです

和気神社の授与品その他

御朱印帳袋もとてもきれいでした

和気神社の建物その他

和気清麻呂公生誕の地、岡山県和気町から寄贈された藤が4~5月にかけて咲き誇るそうです。

和気神社の周辺
和気神社の御朱印
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惣一郎
2023年03月10日(金)
1269投稿

【大隅國 古社巡り】

和氣神社(わけ~)は、鹿児島県霧島市牧園町宿窪田にある神社。旧社格は県社(※)。祭神は和気清麻呂公命。

祭神の和気清麻呂は奈良時代の769年、宇佐八幡宮神託事件に関連して大隅国に遠島となり、その後名誉回復されて京へ戻っている。江戸時代末期の1853年、鹿児島藩11代藩主・島津斉彬が日向國・大隅國視察の際に当地に松を手植えし、側近の八田知紀に命じて和気公の追跡調査をしたところ、当地が和気公の配流地であると確定した。1942年に県社として和氣神社の設立許可が下りたが、太平洋戦争の終戦を越え、1946年に創建された。

当社は、JR肥薩線・嘉例川駅の東方5km、道のり8kmの山あいにある。現在は霧島市立和気公園の一部になっているが、もともとはすべて当社の境内だったのかな。近隣の住宅があるエリアから見ると、なだらかで草木が少なめの小高い場所に鎮座している。当社では和気公の使いが<猪>であったことから、最近まで実際に猪を飼育していたり、日本一の巨大な絵馬に和気公と猪を描いたり、狛犬の代わりに狛猪だったりと、何かと<猪>推しなのが特徴。もう一つの推しが、「坂本龍馬の新婚旅行の地」とのこと。旧県社格だけあって、境内は広く、社殿も大きく立派で、十分な格式を感じられる。

今回は、鹿児島県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は休日の午前中で、山あいの不便な立地にもかかわらず、入れ代わり立ち代わりで常に参拝者が訪れていた。

※設立許可時の昭和戦前1942年は県社。ただし、竣工が戦後の1946年にずれ込んでいる。

和気神社(鹿児島県)

境内東南端入口全景。境内は背の高い古木で覆われている。

和気神社(鹿児島県)

境内入口の右側にある巨大な絵馬。縱8.3m、横12.5mあり、2007年(平成19年)の亥年に製作された。和気清麻呂公とイノシシが描かれているが、イノシシは、和気公を危機から救い大隅國まで導いたと伝わる。

和気神社(鹿児島県)

境内入口の<鳥居>。

和気神社(鹿児島県)

鳥居をくぐると、参道右手にある<社務所>。御朱印はこちら。

和気神社の建物その他

参道左側にある<和気ちゃん>の建物。白いイノシシが飼育されていたが、数年前に亡くなっている。

和気神社(鹿児島県)

参道左側の<手水舎>。

和気神社(鹿児島県)

参道途中から<社殿>を望む。社殿は一段高いところにある。

和気神社(鹿児島県)

拝殿前左側の、とっても珍しい<狛猪>。

和気神社(鹿児島県)

拝殿前左側の<狛猪>。当社では徹底した<イノシシ推し>。(o^―^o)

和気神社(鹿児島県)

<拝殿>全景。両側に翼殿を持つ立派なもの。

和気神社(鹿児島県)

<拝殿>正面。扁額などはない。

和気神社の本殿

<拝殿>内部。

和気神社(鹿児島県)

拝殿から振り返って境内全景。人里離れた場所にあるが、絶えず参拝者が訪れていた。

和気神社(鹿児島県)

参道右側、社務所の隣にある絵馬掛けゾーン。「坂本龍馬とお龍の新婚旅行の地」の看板があるが、1866年に坂本龍馬が当地を訪問したとされ、その時の和歌が記載されている。
その前にポツンと立っている昭和の赤い郵便ポストも良い感じ~♪ (o^―^o)

和気神社(鹿児島県)

鳥居の前に大きな石碑が3つほど立っているので見て廻る。
こちらは<照國公(斉彬公)手植松之記>と記された石碑。

和気神社(鹿児島県)

こちらは<忠烈和気公之遺跡>。もともとこの碑の傍に、1853年に斉彬公お手植えの松があったが枯れ、その後1937年に孫の島津忠重侯爵がお手植えした楠の木が立っている。

和気神社(鹿児島県)

こちらは<義人稲積翁之碑>。稲積翁は、里民に伝わる和気公伝説に出てくる義人。

和気神社(鹿児島県)

最後に<社殿>全景。ほどよく森に包まれてた大きく立派な社殿。(^▽^)/

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歴史

清麻呂公は宇佐八幡神託の一件により僧道鏡の皇位継承を阻止したが、神護景雲三年大隅に流された。嘉永六年二十八代藩主島津斉彬公は、大隅日向諸郷巡視の折り犬飼附近に駕を駐め、八田知紀に命じて和気公遺跡を精査し、史実確認の上下中津川犬飼の現在地を公の遺跡地と確認された。滝の下流に縁りの和気湯、腰掛石がある。

明治維新以降清麻呂公の精忠の思想は世に浮上し、公関係遺跡地七ヶ所に記念碑も建ち、皇紀二千六百年を機に神社建立の気運が昂まり、昭和十二年四月地元有志の浄財により和気祠堂が建立された。昭和十四年和気清麻呂公精忠顕彰会が発足し、県議会の議決、県知事の承認を経て、同十七年五月六日県社和気神社創立の件が内務省神祇院より許可され、同十八年二月十一日地鎮祭を執行し建設を進め、大東亜戦争敗戦後の昭和二十一年三月十七日辛うじて鎮祭奉祀した。しかし国の管理を離れ、民心は混乱急変し、社会の関心も地に堕ち、管理不能状態が三十有余年続いて社殿の荒廃は極限に達した。

昭和五十四年四月和気神社復興奉賛会が発足、県下一円に亘り大々的に募金が行われ、会務は順調に進行していたが中断した。同五十七年六月二日、社殿屋根の仮補修が完成、社殿の腐朽により雨漏りが甚だしく桧皮葺をカラートタン葺に応急補修した。神社の窮状観るに忍びずと、昭和六十一年四月十日和気神社崇敬会が地元有志者により発足し、境内整備、管理運営上の絶大な力となって現在に至っている。

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和気神社の基本情報

住所鹿児島県霧島市牧園町宿窪田3986
行き方
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名称和気神社
読み方わけじんじゃ
御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳あり
電話番号0995‐77‐2885
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
絵馬あり

詳細情報

ご祭神正一位護王大明神(和気清麻呂公)(ショウイチイゴオウダイミョウジン(ワケノキヨマロコウ))
ご由緒

清麻呂公は宇佐八幡神託の一件により僧道鏡の皇位継承を阻止したが、神護景雲三年大隅に流された。嘉永六年二十八代藩主島津斉彬公は、大隅日向諸郷巡視の折り犬飼附近に駕を駐め、八田知紀に命じて和気公遺跡を精査し、史実確認の上下中津川犬飼の現在地を公の遺跡地と確認された。滝の下流に縁りの和気湯、腰掛石がある。

明治維新以降清麻呂公の精忠の思想は世に浮上し、公関係遺跡地七ヶ所に記念碑も建ち、皇紀二千六百年を機に神社建立の気運が昂まり、昭和十二年四月地元有志の浄財により和気祠堂が建立された。昭和十四年和気清麻呂公精忠顕彰会が発足し、県議会の議決、県知事の承認を経て、同十七年五月六日県社和気神社創立の件が内務省神祇院より許可され、同十八年二月十一日地鎮祭を執行し建設を進め、大東亜戦争敗戦後の昭和二十一年三月十七日辛うじて鎮祭奉祀した。しかし国の管理を離れ、民心は混乱急変し、社会の関心も地に堕ち、管理不能状態が三十有余年続いて社殿の荒廃は極限に達した。

昭和五十四年四月和気神社復興奉賛会が発足、県下一円に亘り大々的に募金が行われ、会務は順調に進行していたが中断した。同五十七年六月二日、社殿屋根の仮補修が完成、社殿の腐朽により雨漏りが甚だしく桧皮葺をカラートタン葺に応急補修した。神社の窮状観るに忍びずと、昭和六十一年四月十日和気神社崇敬会が地元有志者により発足し、境内整備、管理運営上の絶大な力となって現在に至っている。

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