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山王神社(日枝神社)について
上杉謙信vs小田氏治、山王堂の戦いの古戦場跡に立つ神社
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小田氏治公の華麗なる戦歴(負け戦)の一つ、山王堂の戦いの舞台となった山王神社に行ってみました。
しかも相手は越後の龍 上杉謙信! 勝てるのか天庵様?(;゚∇゚)
当時の小田家は、関東の小大名の常として時には上杉家、時には北条家と同盟離叛を繰り返しつつ、近隣の佐竹家、結城家、真壁家、多賀谷家、大掾家なんかと抗争を繰り返してました。
(しかも、これら小大名同士もしょっちゅう同盟離反を繰り返すので関東の戦国情勢はややこしい(*д*;)
さて永禄5年(1562年)6月、氏治公は思うところあったのか、越後一家上杉組を裏切り小田原一家北条会に鞍替え。
北条会の後ろ楯を得た氏治公、佐竹義昭が小山方面に出陣してる隙を突いて佐竹のシマを荒らしたりしてました。
たまりかねた義昭公、佐竹・宇都宮・真壁と連名で氏治の悪行を謙信公にチクる。
「あの野郎!絶対許さねえ!!(#゚Д゚)」
ブチギレた謙信親分みずからが小田領に出馬! この時の進軍スピードは異常に早く関東緒将の援軍が追い付けず、謙信の手勢8000のみで山王堂に布陣。
一方、小田方も毘沙門天の異常な早さに全く準備ができずなんとか兵3000をかき集めて対峙。
さてここで何を血迷ったのか氏治公、家臣が諌めるのも聞かず、なんと天下の謙信相手に川を背にして背水の陣を敷く!Σ(゚Д゚;)
氏治公としては、前は深田なので上杉勢が足を取られてる間に討ち取るという「ぼくのかんがえたさいきょうのさくせん」だったらしいのですが・・・
あ、あれ・・・?(;・∀・)
そんな小細工が自称 毘沙門天に通じるワケもなく、散々打ち破られたあげく居城の小田城まで落とされ、オマケに謙信公みずからの采配で乱坊取りした捕虜の奴隷市場まで開かれてしまいましたとさ。チャンチャン♪
でも決して死なずしぶとくまた再起する氏治公w
ちなみにこの山王堂の戦いから落ち延びる途中「馬が疲れてかわいそう( ´・ω・`)」とか言って悠長に川で水を飲ませてたら、上杉勢に追い付かれて危うく討ち取られかけたなんてホッコリエピソードもあったりしますwww
このどこか憎めないところが小田天庵様の魅力なんですよね☆
まず立派な生垣や竹藪、巨大な楼門を構えた建物が見えまして、おそらくここだろうと思って行ってみたところ・・・
うん?なんか神社というより寺っぽいような・・・('_'?)
しかし地図上ではお寺は見当たらず??
実はこちらは個人のお宅でした・・・orz
それにしても楼門まで備えた凄い御屋敷(゜゜;)
よほどの豪農と思われる
この御屋敷の敷地の一角に立つような感じで神社があった(^^;
左右に境内社あり
左は祭神不明
右は愛宕社らしい
拝殿
拝殿内
本殿との間は橋で繋がれたわりと立派な構造
今はスッカリ寂れてますが、昔は節分や初午などの祭りもあって結構賑わっていたらしい
左の方に石像が2つ
地蔵じゃなくて道祖神かな?
右の像は頭が欠損してしまったようで丸石が乗せられてます
山王神社前から、おそらく謙信公が陣を敷いたであろう西の雲井宮郷造神社方向の眺め
名称 | 山王神社(日枝神社) |
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読み方 | さんのうじんじゃ(ひえだじんじゃ) |
通称 | 山王様 |
詳細情報
ご祭神 | 《主》大山咋命,《配》大己貴命,少彦名命 |
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体験 | 武将・サムライ |
Wikipediaからの引用
概要 | 山王堂の戦い(さんのうどうのたたかい)は、戦国時代の永禄7年4月28日(1564年6月7日)に常陸真壁郡山王堂(現在の茨城県筑西市山王堂)で行われた野戦。 |
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引用元情報 | 「山王堂の戦い」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%B1%B1%E7%8E%8B%E5%A0%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&oldid=91007347 |
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