のまじんじゃ
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摂津国能勢郡の式内社です。朝廷にて武器の管理を行なっていたとされる物部氏の諸流である野間連の一族によって創建され、御祭神は物部氏の祖神である饒速日命さまを祀ります。推古天皇さまの御代に石上神宮から神宝(勾玉)を御霊代として鎮座したと伝わっており、古くは石上神宮の旧名と同じく「布留社」とも呼ばれていました。

《一の鳥居と社号碑》
住宅地に入る前の大きな道に面して立っています。

《二の鳥居》

《由緒書き》
宮司さんによれば当地に石上神宮から御神体が移ってきたのは野間氏がいるだけではなく、当地に産出していた「地黄草」という薬草があり、朝廷に献上していたと言う貢献度が由来であるとされています。
ちなみにこの地黄草の効能は滋養増強だそうです。

《手水舎》
水は流れています。洗ひつるここも…(略)

《七郎神社》

《祓殿》

《拝殿》
御神体としている勾玉は1つではなくなんと241個!宮司さん曰く石上神宮の本殿裏にある禁足地の御敷地から出土した宝物と同じものであろうと推測しているようです。

《扁額》🙏
こちらには旧称とされる「布留大明神」と書かれています。

《授与品類》

《本殿》

《末社①》
右側が稲荷神社で、左は區神総社と書かれています。「區」には「細々した」と言う意味があるので何柱かの合殿となっているようです。

《忠魂碑》
なんか野球ボールみたい。

《末社②》
住吉神社と弁天神社とあります。

《陰陽石》
神代の伊弉諾命・伊奘冉命さまの結びの伝承を示しているとされます。
右手の末社は月読神社です。

《授与所》
無人でしたがお電話すると来てただきました。道中式内社を巡っていることをお話すると行ってきた走落神社とこのあと行く神社を全て当てられてしまいました。
後で分かったことですが、この周辺の式内社を野間神社の宮司さんが全て兼務しているそうです。

《授与品》
👁チェックポイント‼️
お札も受けてきましたが極め付けはやはりこの十種神宝守ですね。十種神宝にはそれぞれの表した記号のような絵で表されますがそれらを全て意匠に使っています。
十種神宝に関連した授与品はここ最近よく出てきましたが、十種神宝は饒速日命さまが神武天皇さまに服属の印として献上したとされており、また当社の御神体となった勾玉は饒速日命さまがつけていたものとされているようです。

Bigスズメバチ🐝🐝に危うく刺されそうになり💦💦 駆け足💨での参拝になりました
野間神社⛩️【延喜式】 旧郷社
主祭神) 饒速日命-にぎはやひのみこと
相 神) 拷幡比売命-たくはたひめのみこと
自然神) 鹿屋野比売命-かやのひめのみこと
御神徳) 国家安泰、護国豊穣、無病息災等
御朱印】 拝殿に書置きがあるのですが、今回 は無かったです^ ^💦社務所も不在の様で(まぁこんな事もあり、必ずしもではないと言う事ですね)
古く歴史のある神社の様で、これからの季節は祭りや行事が多いみたいです
境内社で住吉大神、稲荷神社、七郎神社
*古くは推古天皇の時代(7c初め頃)からの
歴史を持つ神社⛩️、織田信長の兵により
焼失後、地元 能勢氏の社殿として修復されて現在にいたる

野間神社⛩️鳥居
秋祭りの準備でしょうか?樹木の伐採作業を職人さんがしていました
鳥居も時代を感じるものでした!

野間神社の由緒書

由緒書

手水舎

本殿にも🐝君がいました💦
写真右下の机に書置きがあるはずなのに
・・・今回はありませんでした(≧∀≦)

社務所も御不在の様でした

境内社) 七郎神社
当時の有力者みたいです

本殿の遠景

真如寺より戻る途中に見つけました。
拝殿は工事中で、仕方なく、本殿を覗き込んでお参りしました。
田舎の村の鎮守様の雰囲気でした。

鳥居

由緒

七郎神社

祓戸神社

月読神社

稲荷社と戎社?

隙間より本殿
境内・文化財
境内・文化財をもっと見る|歴史
当社は、地黄字森畑に鎮座する「延喜式」内の神社である。「延喜式」神名帳能勢郡の条に、「野間神社」とある。当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の13年(605)9月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭したと記されている。
また、「能勢郡神社仏閣由来」には、天喜2甲午年(1054)に同所より遷座がなされたと記されている。つまり今の奈艮県天理市の石上神宮の分霊を布留道(布留大明神が当地へ遷座の時通つた道)「大原越え」を通り、「・・・地黄長者七郎屋敷江移ス、地黄布留大明神ト号ス」とあり、古くは社号を「布留宮」、「布留社」、「布留大明神」と呼んでいた。
祭神は、「饒速日命」、「宇賀御魂神」、「草野姫命」、「野見宿弥」となつている。
「饒速日命」は物部氏の祖神で、前記の石上神宮は物部氏の氏神であること、今一つには、大化前代より当地域に蟠踞していた野間の連は、「物部金連公、野間連等の祖」とあり、この地域、一帯は、物部氏の勢力下にあつて、しかもその一族の影響力の強い野間氏の氏神だった可能性がある。
野見宿弥は、士器をつくって朝廷に献上した氏族で、その宿弥を祭神としているのは、雄略天皇期、能勢より士器を献上したという日本書紀の記述に結びつき、土師氏の祖として祭祀されたと考えられる。
社記によれば、当社の鎮座する地域を「地黄」と呼ぶのは、前記石上神宮より御霊と共に、この地に同道した人々が持ち来たり、産出した薬草「地黄草」の名に因んだものだといわれている。平安時代の承和年中(834~48)より、当地は朝廷典薬寮の地黄御薗として、薬草の貢献が行われた。
さらに平安時代の長暦元年(1037)、能勢採銅所の設置により、布留社(野間神社)は、同採銅所の鎮守社となり、採銅処権預(奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになった。
その後の戦乱期には、能勢氏の居城とあいまって、天正年間(1573~92)織田信澄、また隣接の塩川氏との抗争の繰り返しで、社殿をはじめ城下は度重なる兵火に見舞われ、天正16年(1588)より能勢氏伝来の領地は島津氏の領有となつた。
天正19年(1591)9月領主島津義弘は、前領主能勢頼次等の願望を聞き入れ、頼次を本願人として社殿を再建した。この時の棟札を「東郷村誌」にみると、各村々の人数は合て1479人となり、当時の人口動静また氏子数など貴重な資料といえよう。
その後能勢氏は、関ヶ原の役の功により旧領が復帰し、領主頼次の帰郷に際しては、当社の社庭に領民ことごとくが集まり、三日三晩祝杯をあげたと伝えている。 以後、領主能勢氏の尊崇は厚く、万治年間(1658~61)に拝殿・大鳥居を造立、元文元年(1736)には社殿の改築がなされ、また同年に並河誠所によって「野間社」の社号標も鳥居の東側に建立された。 明治40年には、領内最奇りの神社10社が当社に合祀された。
祭事としては、古来より毎年12月に行われる「御召し替え」(御霊代である玉の包み替え)をはじめ、特に10月秋の大祭には、近郷稀な「たんじり」「しし舞い」でにぎわう豪勢な祭りがとり行われている。
[社頭掲示板より]
写真












| 名称 | 野間神社 |
|---|---|
| 読み方 | のまじんじゃ |
| 通称 | 布留神社 |
| 参拝時間 | 参拝自由 |
| 参拝にかかる時間 | 約15分 |
| 参拝料 | なし |
| トイレ | あり |
| 御朱印 | あり |
| 限定御朱印 | なし |
| 御朱印帳に直書き | なし |
| 御朱印の郵送対応 | なし |
| 御朱印帳 | なし |
| 電話番号 | 072-737-1166 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| メールアドレス | furunokamuyashiro@gmail.com |
| ホームページ | https://info1830827.wixsite.com/noma-jinja |
詳細情報
| ご祭神 | 饒速日命 拷幡比売命 鹿屋野比売命 |
|---|---|
| ご神体 | 勾玉(現存するかは不明) |
| 創建時代 | 推古天皇十三年(605年) |
| 創始者 | 野間連一族 |
| 本殿 | 三間社流造 |
| ご由緒 | 当社は、地黄字森畑に鎮座する「延喜式」内の神社である。「延喜式」神名帳能勢郡の条に、「野間神社」とある。当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の13年(605)9月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭したと記されている。
|
| ご利益 | 五穀豊穣 |
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