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ぜんらくじ|天台宗法寫山

善楽寺
兵庫県 西新町駅

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山門横の道を通って境内に駐車可

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四季
四季
2022年03月16日(水)561投稿

善楽寺

~播磨守 平清盛五輪塔~

山号  法冩山 善楽寺
宗派  天台宗
御本尊 阿弥陀如来
開基  法道仙人
 (飛鳥時代・大化年中 645~650)

縁起

善楽寺(戒光院)は孝徳天皇の大化年中(六四五―六五〇)に天竺の高僧法道仙人が開創した。天台宗の大寺院で、明石では最も古い寺である。
平清盛ゆかりの地でもあり、源氏物語の舞台にもなるほど知られたところであった。
寺伝によると、平安時代中期の天喜元年(一〇五三)一〇月二六日に住職だった源泉座主が延暦寺第三十一世座主になられている。短期間の座主ではあったが、当時の勢力を物語る出来事であった。しかし、元永二年(一一一九)には火災で堂塔を焼失した。
それから三〇余年ののちの保元元年(一一五六)播磨守に任じられた平清盛はこの地を重視し、善楽寺の全ての堂塔伽藍を再興、念持仏であった木造の地蔵尊と寺領五〇〇石を寄進した。この付近は当津と呼ばれる庄村で、海路の要衝であったためといわれる。それ以来、この中心寺院として栄え、平安時代末期に十七ヵ院を持ち、寺域も北は樽屋町、東は五分一町(日富美町)にわたる約一㌔平方という広大なものだった。

このころ当寺には、清盛の弟教盛の子忠快法印が寺僧としており、源平合戦の最中である養和元年(一一八一)に亡くなった清盛の供養のため、巨大な五輪塔を建てた。戦国時代の天文八年(一五三九)には再び戦乱のなかで本堂などを焼失、文禄二年(一五九三)に再建している。

江戸時代には明石藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受けた。五代藩主松平忠国公は、源氏物語の世界をここにみて、明石入道の碑を建てた。淡路島を前に美しい寺であったのだろう。
境内の美しい松にも「光源氏明石之浦之松」の名がつけられた。このため、全国から文人墨客が訪れ、多くの書画を残したという。
昭和二〇年七月七日、戦火によって三たびすべてを焼いた。本堂、仏像、寺宝など灰燼に帰した。同五三年一二月、昭和の再建がはじまり、まず十王門が復活、同六三年三月三〇日、四度目の復興を成し遂げた。現在も明石有数の寺院として訪れる人は絶えない。

戒光院の御本尊は、京都の大仏師・松下宗琳作。
京都大原・三千院の阿弥陀三尊をモデルに、新御本堂に安置されています。

また、円珠院には、宮本武蔵が作庭したと言われる枯山水の一部があります。

~・~・~・~

曜日にかかわらずお参りされる方々の途切れることはありませんでした。
お彼岸が近いこともあり、広大な境内から読経が心地よく響いた後は 檀家さま宅へ御住職自ら出向かれて、分刻みのお忙しさのご様子でした。
順番待ちの中、一人一人にお声掛け、軽快にお優しくお話し戴きました。
ご拝顔の上素晴らしい時間を頂戴し、御朱印を拝受できましたことがとても嬉しかったです。
ありがとうございました。

明石市大観町11―8
問合せ先 戒光院

善楽寺(兵庫県)

善楽寺 戒光院 境内

左の「光源氏古跡明石之浦浜之松」奥には、

伊藤博文公婦人母堂の墓碑があります。

善楽寺の本殿・本堂

戒光院 御本堂

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歴史

善楽寺は孝徳天皇の大化年中(643〜650)に天竺の高僧法道仙人の開創した。天台宗の大寺院で、明石では最も古い寺である。平清盛ゆかりの地でもあり、源氏物語の舞台にもなるほど知られたところであった。
寺伝によると、平安時代中期の天善元年(1052)10月26日に住職だった源泉法師が延暦寺第三十一世座主になられている。短期間の座主であったが当時の勢力を物語る出来事であった。しかし元永二年(1119)には火災で堂塔を焼失した。それから三十余年のちの保元元年(1156)播磨守に任じられた平清盛はこの地を重視し、善楽寺のすべての堂塔伽藍を再興、念持仏であった木造の地蔵尊と寺領五百石を寄進した。この付近は当津のと呼ばれる庄村で、海路の要街であったためといわれる。それ以来、ここの中心寺院として栄え、平安時代末期には十七ヶ院を持ち、寺域も北は樽屋町、東は材木町にわたる約1㎢という広大なものだった。
このころ当寺は、清盛の弟教盛の子・忠快法印が寺僧としており、源平合戦の最中であった養和元年(1181)に亡くなった清盛の供養のため、巨大な五輪塔を建てた。戦国時代の天文八年(1593)には再び戦乱のなかで本堂などを焼失、文禄二年(1153)に再建している。
江戸時代には江戸藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受けた。五代藩主松平忠国は、源氏物語の世界をここにみて、明石入道の碑を建てた。淡路島を前に美しい寺であったのだろう。境内の美しい松にも「光源氏明石浦浜之松」の名がつけられた。このため、全国から文人墨客が訪れ、多くの書画を残したという。
昭和二十年七月七日、戦災によって三たびすべてを焼いた。本堂、仏像、寺宝など灰塵に帰した。同五十三年十二月、昭和の再建がはじまり、まず十王門が復活。同六十三年三月十日四度目の復興をなし遂げた。現在も明石有数の寺院として訪れる人は絶えない。

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善楽寺の基本情報

名称善楽寺
読み方ぜんらくじ
御朱印あり
限定御朱印なし

詳細情報

ご本尊地蔵菩薩
山号法寫山
宗旨・宗派天台宗
創建時代大化年間(645〜650)
開山・開基法道仙人
文化財

平清盛五輪塔(市指定文化財)

ご由緒

善楽寺は孝徳天皇の大化年中(643〜650)に天竺の高僧法道仙人の開創した。天台宗の大寺院で、明石では最も古い寺である。平清盛ゆかりの地でもあり、源氏物語の舞台にもなるほど知られたところであった。
寺伝によると、平安時代中期の天善元年(1052)10月26日に住職だった源泉法師が延暦寺第三十一世座主になられている。短期間の座主であったが当時の勢力を物語る出来事であった。しかし元永二年(1119)には火災で堂塔を焼失した。それから三十余年のちの保元元年(1156)播磨守に任じられた平清盛はこの地を重視し、善楽寺のすべての堂塔伽藍を再興、念持仏であった木造の地蔵尊と寺領五百石を寄進した。この付近は当津のと呼ばれる庄村で、海路の要街であったためといわれる。それ以来、ここの中心寺院として栄え、平安時代末期には十七ヶ院を持ち、寺域も北は樽屋町、東は材木町にわたる約1㎢という広大なものだった。
このころ当寺は、清盛の弟教盛の子・忠快法印が寺僧としており、源平合戦の最中であった養和元年(1181)に亡くなった清盛の供養のため、巨大な五輪塔を建てた。戦国時代の天文八年(1593)には再び戦乱のなかで本堂などを焼失、文禄二年(1153)に再建している。
江戸時代には江戸藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受けた。五代藩主松平忠国は、源氏物語の世界をここにみて、明石入道の碑を建てた。淡路島を前に美しい寺であったのだろう。境内の美しい松にも「光源氏明石浦浜之松」の名がつけられた。このため、全国から文人墨客が訪れ、多くの書画を残したという。
昭和二十年七月七日、戦災によって三たびすべてを焼いた。本堂、仏像、寺宝など灰塵に帰した。同五十三年十二月、昭和の再建がはじまり、まず十王門が復活。同六十三年三月十日四度目の復興をなし遂げた。現在も明石有数の寺院として訪れる人は絶えない。

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