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四天王寺

聖徳太子を徹底解説!冠位十二階の色は?なぜお札になったの?

最終更新:2021年04月02日公開:2021年03月26日
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「聖徳太子は、なぜ偉いの?」
「10人の話を同時に聞けたって本当?」
「教科書に出てきた冠位十二階って何だっけ?」

2021年は聖徳太子が亡くなってから1400年になります。
2021年から2023年にかけて、関西を中心に各地で聖徳太子のイベントや法要、特別展が行
われます。

冠位十二階や十七条の憲法の制定など、日本の歴史を学ぶうえで欠かせない聖徳太子。
学校で習ったはずなのに、
「聖徳太子ってどんな人?」と聞かれて一番に思い浮かぶのは「10人の話をいっぺんに聞ける人!」になっていませんか?

伝説も数多く存在する聖徳太子ですが、
日本がまだ国として成立過程の時代に推古天皇の摂政として、大陸の制度や文化を積極的に吸収。
冠位十二階で役人の身分制度を整え、「和を以て貴しとなす」で有名な役人の心構えである十七条の憲法を制定し、日本の国としての礎を築いたといわれるすごい人なんです。

その功績が称えられ、なんと7回もお札の顔に選ばれた、日本を代表する人物でもあります。

聖徳太子没後1400年の今、改めて聖徳太子の功績と生涯を学びなおしてみませんか?

今回は、日本全国14万件の神社お寺の検索サイト「ホトカミ」が、皆さんに聖徳太子のことをお伝えします。

この記事では、 知っておきたい「聖徳太子の功績」「聖徳太子の生涯」から、
それって本当?な聖徳太子伝説の数々まで、聖徳太子にまつわる歴史・伝説を徹底解説!

最後に聖徳太子ゆかりのお寺も紹介します。

それではまず「聖徳太子って何した人なの?」という疑問にお答えするべく、聖徳太子の功績について学びましょう。

※「聖徳太子は実在しない」という人もいるくらい様々な学説が存在しますが、古くから信仰の対象となっていたのも事実。
この記事では奈良時代の歴史書『日本書紀』、聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』『太子伝記』の話を中心にお伝えします。

この記事の書き手
ホトカミ編集部

立崎理恵


日本最大級の神社お寺の検索サイト「ホトカミ」編集部編集長。神社お寺や御朱印の魅力、歴史などをわかりやすく皆さんにお届けします。           

    目次

  1. 聖徳太子を代表する3つの功績を分かりやすく紹介
  2. 聖徳太子の生涯
  3. 聖徳太子とお札   
  4. 聖徳太子ゆかりのお寺
  5. おわりに

聖徳太子を代表する3つの功績を分かりやすく紹介

冠位十二階の制定で優秀な役人を登用

聖徳太子と推古天皇の政治として一番有名なのが、
「冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制定」です。

歴史の教科書にも必ず登場するため、
名前だけでも知っている方は多いのではないでしょうか。
冠位十二階とは、個人の能力や手柄によって役人の位を与える制度です。
この制度によって昇進も可能となりました。

現代からすると、「能力によって地位が決まったり、昇進できるなんて当たり前じゃないの?」と思うかもしれませんが、
当時の役人の登用の仕組みを考えると、冠位十二階はとても画期的な制度でした。

それまでの日本は、豪族とよばれる有力な一族ごとに職業や地位が与えられ、その地位を世襲していました。
つまり、お父さんが役人であれば子供もまた役人になります。
これでは能力の低い人でも偉い人の息子というだけで、役人になって権力をふりかざすことができてしまいます。
逆にどんな優秀な役人であっても、お父さん以上の役職に就くことはできませんでした。

世襲制によって腐敗し、一族ごとの争いが絶えなかった時代の603(推古天皇11)年、
冠位十二階が制定されました。

冠位十二階によって世襲は廃止され、先に述べたように、個人の能力や手柄に応じて位階(地位)が与えられるようになり、昇進も可能となったのです。

位階は上から、
「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」
のあわせて12の位階がもうけられました。
位階それぞれに頭につける冠の色が与えられ、役人の被り物を見ればその役人の地位が
分かるようになりました。

世襲を繰り返していた政治が、広く役人を登用し、地位を可視化したことで、
大陸に国家として認められるための政治の仕組みをつくる第一歩を踏み出したのです。


しかし、広く役人を登用し手柄を評価するとなると、今度は役人が守るべきルールが必要になってきます。
それまでは父親の背中を見て同じようにしていればよかったところを、
役人の家の出身でなくとも役人の心構えを実践しなければいけません。

そこで役人の守るべき心構えを明文化したのが、翌年に制定された十七条の憲法です。

次に、「和を以て貴しとなす」で有名な十七条の憲法について学びましょう。

十七条の憲法を制定!役人の心構えを示す

「家柄に関係なく優秀な役人を登用できるようになったのに、
 役人の目指す方向性を示すものがなにもない!」
それまで親から子へ不文律のように伝えられてきた役人の慣習や心構え。

世襲の時代は親の背中を見て学べばそれでよかったですが、冠位十二階を制定したからには
そうはいきません。

そこで聖徳太子が604年に制定したと伝わるのが十七条の憲法。

憲法といっても、現在の憲法とは異なり、
役人が守るべき道徳的規範のようなものです。

冠位十二階の制定によって能力のあるものを取り立てることにした聖徳太子は、
十七条の憲法を制定することで役人の心構えを示そうとしました。

ここでは、有名な一条から三条を取り上げてお伝えします。

一に曰く、和を以て貴しとなし、忤 (さか)ふること無きを宗とせよ。
一にいう、和を尊び、逆らい背くことのないようにせよ。

二に曰く、篤 (あつ)く三宝 (さんぼう)を敬へ。三宝は仏・法・僧なり。
二にいう、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧である。

三に曰く、詔 (みことのり)を承 (うけたまは)りては必ず謹め。君は天なり、臣は地なり。
三にいう、詔を承ったなら、必ず謹んで従え。君は天であり、臣は地である。

日本古典文学全集3 日本書紀(2) P.543をもとに書き下しました

一条の「和を以て貴しとなす(わをもってとうとしとなす)は、特に有名ですね。
はじめに「和」の精神を伝え、協調や融和の大切さを教えています。

聖徳太子が生きた時代は、氏族間の対立や新しく入ってきた大陸の文化への反発など、争いの絶えない時代でした。
だからこそ、一条でまず他者を敬い受け入れ、手を取り合うことの重要性を説いたのかもしれません。
聖徳太子の和の精神は、現代にも通用する教えです。

二条では、仏教を敬うようにと説かれています。
仏(仏さま)、法(仏さまの教え)、僧(教えを実践するお坊さん)の三つをあわせて三宝(さんぼう)といいます。
大陸の文化を積極的に取り入れ、大国との対等な外交を目指した聖徳太子は、仏教思想に基づいた国作りをすすめました。

三条では、天皇の命には必ず従うよう促し、天皇を中心とした中央集権国家を目指したことがうかがえます。
こうして天皇の権威が次第に上昇し、後の時代の聖武天皇のような有名な天皇の時代へのつながっていきます。

十七条の憲法は、仏教をはじめ儒教・法家・道家などの思想を盛り込んで作られました。
ほかの条では、天皇に従うことや、役人の礼を重んじ人民を大切にする政治を行うこと(儒教)、功罪に応じた賞罰を与えること(法家)などを説いています。

ちなみに、鎌倉幕府の御成敗式目は17の3倍の全五十一条、江戸幕府の禁中並公家諸法度は全十七条からなるなど、後の世の法に十七条の憲法が影響を与えたことがうかがえます。

冠位十二階や十七条の憲法の制定は、遣隋使の派遣によって取り入れた大陸文化をもとに行われました。
優秀な役人を登用し、きちんと律することで、日本は役人の制度が整った国へと変貌をとげます。


続いて、日本が大陸文化を吸収するのに大きな影響を与えた遣隋使についてお伝えします。

小野妹子ら遣隋使の派遣で中国文化を輸入

推古天皇と聖徳太子が政治を行っていた時代、中国文化を輸入するために隋(当時の中国)に派遣されたのが遣隋使(けんずいし)です。
一説によると、600(推古天皇8)年から614(推古天皇22)年まで、6回にわたって派遣されました。

一番はじめの600(推古天皇8)年の派遣によって、大陸の文化や制度を学んだ日本は、
603年に冠位十二階を、604年に十七条の憲法を制定。

文字に起こされた制度がほとんどなかった状態から、急ピッチで制度を整え、
国を形づくっていきました。

遣隋使のなかでもっとも有名なのが、607(推古天皇15)年に行われたものです。
小野妹子(おののいもこ)が派遣され、隋に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや(つつがなきや)」と書かれた国書を渡しました。
これは「日の昇る方角の国(日本)の天子である私が、日の沈む方角の国(隋)の天子に国書を送ります。お元気ですか」という意味です。
この国書は「天子はこの世にただ一人、自分だけだ」と考える隋の皇帝 煬帝(ようだい)を怒らせたと隋の歴史書『隋書』に伝わります。

失礼極まりない国書を渡した小野妹子らが処刑されなかったのは、 隋としても、日本と良好な関係を築いておきたいという思惑があったのかもしれません。

翌年、小野妹子は隋の使者 裴世清(はいせいせい)らを連れて帰国しますが、隋からの返書をなくしてしまいます。
返書の内容が聖徳太子の期待した対等な外交関係を示すものではなく、日本を見下した内容であったことから、「小野妹子がわざとなくしたことにしたのではないか」とも考えられています。

遣隋使の派遣によって、それまで朝鮮半島を通じて学んでいた中国の文化が、直接日本に入ってくるようになりました。
607(推古天皇15)年以降は、留学生も派遣され、彼らは隋に留まって大陸の文化を深く学びます

こうして 推古天皇の時代、日本初の仏教文化である飛鳥文化が花開き、帰国した留学生たちは知識人としてその後の政治を主導していきました。

このように「冠位十二階」「十七条の憲法」「遣隋使の派遣」など、
数多くの功績を残し、日本の政治の仕組みづくりを行った聖徳太子。

中国文化や仏教に精通した摂政だったことがうかがえます。

続いては、馬小屋の前で産声をあげてから、49歳で病に倒れるまでの彼の生涯を詳しく見ていきましょう。

聖徳太子の生涯

574(敏達天皇3)年 誕生
593(推古天皇2)年 推古天皇の摂政となる
603年 冠位十二階の制定
604年 十七条の憲法の制定
607年 第2回遣隋使を派遣
622年 ご薨御

馬小屋の前で生まれた!?聖徳太子の誕生

聖徳太子が生まれたのは574(敏達天皇3)年。
伝説によると、聖徳太子のお母さんが馬小屋の前を通りかかったとき、
馬小屋の戸にぶつかって産気づき、聖徳太子が誕生しました。

聖徳太子のお父さんとお母さんは2人とも欽明天皇の子供であり、蘇我氏の血をひいています。
ちょっとびっくりする話ですが、当時の日本ではたとえ兄妹でもお母さんが異なれば結婚できました。

聖徳太子のお父さんはやがて用明天皇として即位する人物なので、聖徳太子は天皇の息子ということになります。

実は聖徳太子とは後世に功績を称えて贈られた名前で、
奈良時代の歴史書『日本書紀』には、厩戸皇子(うまやどのおうじ)や厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのおうじ)と記述されています。

馬小屋の前で生まれた話のほかにも、幼少期の聖徳太子には数々の伝説が残されています。

2歳の2月15日には、夜明け前に東の方角を向いて手を合わせ、「南無仏、南無仏(なむぶつ、なむぶつ)」と唱えたそうです。
2月15日はお釈迦様が入滅された日。
南無仏(なむぶつ)とは、仏様の加護を祈るときに唱える言葉です。
わずか2歳で南無仏と唱えるとは、その後、仏教を大切にした国づくりに注力した聖徳太子らしいエピソードですね。

また、聖徳太子がまだ3歳の3月、桃の花の咲く季節に、お父さんに「松の枝と桃の花、どちらが好きか?」と問われ、松を好んだというエピソードも残っています。
このとき理由を尋ねられた聖徳太子は、「桃の花は美しいけれどはかなく、松は万年枯れることがないから」と答えたそうです。
ちなみに、聖徳太子が建立した法隆寺にはいたるところに松が植えられており、このエピソードを思い出させます。

このほか、生まれたときにいい香りがした、など聖徳太子の幼少期にはたくさんの伝説が残っています。

585(敏達天皇14)年、敏達天皇が亡くなると、聖徳太子のお父さんが用明天皇として即位します。
しかし即位後わずか2年弱で、用明天皇は病気を患ってします。 天然痘(てんねんとう)という重い流行り病でした。

病気になった用明天皇は、重要な臣下たちを枕元に集めます。 そして「私は仏教に帰依しようと思うが、お前たちはどう思うか。話し合ってほしい」と伝えました。

当時の人々にとって、仏教は新しく入ってきた大陸の宗教です。
それまで天皇が公に仏教を信仰することはありませんでした。

物部守屋(もののべのもりや)らは、
「古来から信仰してきた神々をさしおいて他国の神を敬うなど、とんでもない」と考えていました。
対して蘇我馬子(そがのうまこ)らは、
「用明天皇がおっしゃるのだから、仏教に帰依して天皇をお助けするべきだ」と考えます。

蘇我氏側は天皇の希望通り僧侶を招き入れました。
もちろん物部守屋は怒り、僧侶らをにらみつけたそうです。

用明天皇は病に倒れてからわずか一週間で亡くなりました。
天然痘の恐ろしさがうかがえますね。

このとき聖徳太子はまだ14歳でした。

仏教の受け入れをめぐる物部氏と蘇我氏の対立は、
「用明天皇の次の天皇を誰にするか」という問題が絡んだことで激化。

ついに戦争がはじまります。

蘇我氏 vs 物部氏!仏教の受け入れをめぐる戦争に参加

仏教の受け入れをめぐり対立していた物部氏と蘇我氏は、ついに戦争へと発展します。 この戦いには聖徳太子も、蘇我氏側について参加しています。

はじめは物部氏が優勢で、蘇我氏は3度退却します。

あまりの劣勢に敗戦を心配した聖徳太子は木彫りの四天王像を作り、
「物部氏に勝利したあかつきには、四天王をまつる仏塔を建立する」と誓い、戦勝を祈願しました。
※四天王…仏法と仏法に帰依する人々を守る存在で国家の守護神とも考えられた。

4度目の出陣で蘇我氏側は物部守屋を討ち倒し、勝利を納めます。

物部氏を倒したことで、日本は仏教を受け入れ広める方向へと進んでいくのでした。

戦勝祈願の誓いにしたがって、聖徳太子は大阪府の四天王寺と三重県の四天王寺を、蘇我馬子は奈良県の法興寺を建立しました。

推古天皇の摂政に!大和朝廷の政治の礎をつくる

592(推古天皇元)年、日本初の女性天皇である推古天皇が即位します。
推古天皇は用明天皇の妹であり、聖徳太子にとっては叔母にあたる人物です。

翌年、推古天皇は聖徳太子を皇太子にたて、聖徳太子は天皇を補佐する役目の摂政となりました。
20歳の聖徳太子は、こうして政治家としての道を歩み始めるのです。
※当時摂政という役職は存在しませんでしたが、天皇の補佐役という意味で後世の人々から摂政といわれることが多いです

推古天皇と聖徳太子は、「政治改革」と「仏教の隆興」に尽力します。
この時代の政治で有名なのが、「冠位十二階」と「十七条の憲法」の制定でしょう。

冠位十二階は生まれにかかわらず優秀な役人を登用できる制度、
十七条の憲法は役人が守るべき心構えのようなものです。


推古天皇の時代の政治改革は、中国や朝鮮半島の制度をお手本にして行われたと考えられます。
国内の安定を目指したのはもちろんですが、政治制度を整えることで外国から一人前の国として認められたいという思惑もあったかもしれません。

607(推古天皇15)年には 小野妹子らを遣隋使として派遣。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや(つつがなきや)」と書いた国書が隋の皇帝を怒らせたことが知られていますが、
遣隋使一行は翌年、隋の国使とともに戻っており、隋と日本では国同士の交流があったことがうかがえます。

こうして 遣隋使を派遣して積極的に大陸の制度を輸入し、日本の律令制や中央集権国家体制の基礎を築きました。

日本仏教の礎をつくる

実は聖徳太子が摂政としてまず取り組んだのは、国として公に「仏教の受け入れを宣言する」ことでした。
仏教を大切にするよう詔(みことのり)を出し、以後豪族たちは、各地にお寺を建立するようになります。

日本に仏教を広めるため、高句麗の慧慈(えじ)や百済の慧聡(えそう)といった僧侶が来日します。
聖徳太子は2人を師とあおぎ、仏教を学びました。

601(推古天皇9)年には、奈良 斑鳩(いかるが)の地に斑鳩宮(後の法隆寺)が造営されます。
用明天皇が建立を望んだもので、用明天皇のために聖徳太子が建立し、607(推古天皇15)年ごろ完成しました。

用明天皇の病気平癒を願ってつくられた薬師如来像も20年越しに完成し、奉安されました。
この薬師如来像は現在でも法隆寺金堂に安置されています。

また、 聖徳太子は日本初の本格的なお経の注釈書である三経義疏(さんきょうぎしょ)を著しました。
聖徳太子自らお経の講義も行っていたようです。

四天王寺(大阪府)には、敬田院(きょうでんいん)・施薬院(せやくいん)・療病院(りょうびょういん)・悲田院(ひでんいん)と呼ばれる4つの施設がつくられました。

敬田院(きょうでんいん):お寺そのもの
施薬院(せやくいん):薬局
療病院(りょうびょういん):病院
悲田院(ひでんいん)は病人や老人のための居住・就労施設
4つ合わせて四箇院(しかいん)といいます。

聖徳太子によって、仏教に基づいた本格的な社会福祉事業が行われていたと考えられます。

まだまだある!?聖徳太子伝説

政治家として、そして仏教者として活躍した聖徳太子には、大人になってからも数々の伝説が残されています。

甲斐(現在の山梨県)の黒駒という愛馬に乗って空をかけあがり富士山を超えて今の長野県のあたりまででかけた話や、一度に10人の話を聞き分けた伝説などが残されています。

複数の人に同時に話しかけられたときのツッコミ、
「聖徳太子か!」は、聖徳太子伝説からきているものだったのですね。

聖徳太子と仏教の深いつながりを表しているのが 「片岡山飢人伝説(かたおかやまきじんでんせつ)」です。
聖徳太子が片岡の地に出かけたとき、飢えた人が道端に倒れていました。
飢えた人を見た聖徳太子は食べ物と飲み物を与え、自分の着ていた服をかけてあげます。
まもなく飢えた人は亡くなり、埋葬されます。
しかし、数日経ってみてみると亡骸は無くなり、きれいに畳まれた衣だけが残っていたのです。

このエピソードだけでも聖徳太子の慈悲の心をよく表していますが、
後世に「飢えた人は、実は禅宗の開祖である達磨(だるま)だった」という伝説が追加されています。

聖徳太子の薨御と1400年御遠忌

※薨御(こうぎょ)…親王、女院、摂政、関白、大臣などの死去すること。(日本国語大辞典)

621(推古30)年旧暦2月22日(太陽暦4月11日)、聖徳太子は49歳で病気のため亡くなりました。
『日本書紀』には、「臣下や人民は幼児から老人までみな悲しみ、日月は光を失った」と書かれ、聖徳太子の人望の厚さを示しています。

聖徳太子は、磯長陵(しながりょう)に、母后と妃とともに埋葬されました。

2021年は、聖徳太子がお亡くなりになってから1400年にあたります。
聖徳太子1400年御遠忌 (ごおんき)や聖徳太子1400年御聖忌 (ごせいき)といい、各地の聖徳太子ゆかりのお寺で法要が催されます。

また、博物館の特別展やテレビ番組などでも聖徳太子が取り上げられるようです。

こうして日本の歴史上で最も有名な人物の一人となった聖徳太子は、 後の世でも多くの人に慕われました。

実は聖徳太子は、一番お札の顔になった回数が多い人物でもあります。 続いて聖徳太子とお札についてお伝えします。

お札の登場回数ナンバーワンな聖徳太子

聖徳太子は昭和以降、7回もお札の顔に採用されています。

  • ・1930年発行の百円券
  • ・1944年発行の百円券
  • ・1945年発行の百円券
  • ・1946年発行の百円券
  • ・1950年発行の千円券
  • ・1957年発行の五千円券
  • ・1958年発行の一万円券

現在の福沢諭吉の前の一万円札は、1984年まで聖徳太子でした。
1930年発行開始の乙百円券から、1958年発行開始の一万円券にいたるまで、いずれも当時最高額のお札に選ばれています。

お札の顔に採用されたのは、戦前戦後含めて20人しかいないなかで、7回という採用回数は
驚異的です。
戦前の紙幣に使われた人物たちは、軍国主義の要素があるとしてGHQによって禁止されましたが、聖徳太子だけは見逃されました。

日本銀行によると、当時の日銀総裁が「聖徳太子は『和を以って貴しとなす』と述べるなど、軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と主張し、GHQの反対を押し切ったそうです。

これだけ何回も採用されているのは、聖徳太子が残した数々の功績だけではなく、広く国民から知られ愛されているからこそでしょう。

1400年の昔、日本の基礎をつくった聖徳太子は、今も日本人の精神のなかに生き続けています。

聖徳太子ゆかりのお寺、四天王寺

最後に、聖徳太子ゆかりのお寺を紹介します。
聖徳太子の生涯のなかででてきた四天王寺は、1400年の歴史を感じられるお寺です。

ぜひお参りしてみてください。

塔世山 四天王寺(三重県津市)

塔世山 四天王寺は、聖徳太子によって建立されたと伝わる三重県津市のお寺です。
大阪の四天王寺同様、物部氏との戦いのとき、四天王像を刻み戦勝祈願したことをきっかけに、建てられました。
本尊の薬師如来像は、なんと物部美沙尾という女性の発願で作られた仏像です。
時を超えて物部氏の子孫が仏教を信仰し、聖徳太子が建立したお寺に仏像を奉安したのです。

寺宝の聖徳太子像は、聖徳太子が15歳のときに父 用明天皇を見舞う様子が描かれたもの。
本堂では聖徳太子像のレプリカが展示され、年中拝観できます。

1400年御遠忌にあたり、2021年1月から、毎月22日に法要が行われます。
2021年2月からは、聖徳太子1400年御遠忌を記念した限定御朱印が頒布されます。

伊勢の国 四天王寺|公式サイト
伊勢の国 四天王寺|ホトカミ

おわりに

ここまで聖徳太子の業績と生涯、ゆかりのお寺についてお伝えしてきました。

聖徳太子が亡くなってから1400年。
亡くなった年と年数の数え方に諸説あるため、2021~2023年が1400年御遠忌の年にあたり、各地で聖徳太子の法要や展示が行われます。

聖徳太子1400年御遠忌の特別な法要や特別展については、以下のページでまとめて紹介しています。
聖徳太子1400年御遠忌の行事・祭礼カレンダー
100年に一度の行事に、足を運んでみてはいかがでしょうか。

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