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こちょうぜんじ|臨済宗妙心寺派瑞雲山

古長禅寺の御由緒・歴史
山梨県 市川大門駅

ご本尊釈迦如来
ご由緒

~御由緒書より~ 

 古長禅寺は、往古は真言宗の道場として隆盛を極めていたが、幾星霜の間にすっかり荒廃していた。
 正和5年(1316)の3月、夢窓疎石(国師)がこの地に雲遊された折り、留錫して自ら再建されて開山となられ、鎌倉の円覚寺に属す禅宗寺院として再興された。
 古長禅寺は塔頭寺院6ヶ寺を有する大寺院となり、甲斐の禅文化に影響を与えていく。その後寛保3年(1743)天心和尚の時から京の妙心寺を本山としている。
 当寺の山号は瑞雲山である。これは武田晴信公の母、大井夫人(甲斐国巨摩郡大井荘を治めた大井信達の娘)が天文21年(1552)に55歳でご逝去され、瑞雲院殿心月珠泉大姉の法号をもって当寺に葬られ、位牌が安置されたことに由来している。
 幽邃閑雅な臨済宗のこの禅寺は、不幸にも大正13年(1925)8月29日、町内の打揚げ花火により、全伽藍を焼失した。しかし昭和5年に庫裡が完成し、56年には本堂の落慶式をおこなった。重要文化財の夢窓疎石国師座像だけは、いささかの異状もなかったことは国師の霊験におるものである。

~Wikipediaより~
所在する南アルプス市鮎沢は甲府盆地西部に位置する。釜無川右岸の巨摩山地前面に展開する一之瀬台地上に立地する。標高は262メートル付近。古代の律令制下では巨摩郡大井郷鮎沢に比定される。平安時代後期には大井荘が成立し、中世には西郡一帯に勢力をもった有力国衆である大井氏が進出する。

境内地は、もとこの地にあった真言宗寺院の西光寺の跡地であるという。西光寺の創建年代は不詳であるが、行基創建と伝わり七堂伽藍を有したと言われる。西光寺伽藍のうち地蔵堂が残っていたが、大正11年(1922年)の火災で焼失し、現在では一部の墓域のみが残っている。

南北朝時代の1316年(正和5年)には臨済宗の僧である夢窓疎石[1]が西光寺の一角に長禅寺を創建し、臨済宗に改宗されたという。

大井夫人墓所(2019年8月撮影)
『高白斎記』『塩山向嶽庵小年代記』に拠れば戦国時代には西郡国衆大井信達が甲斐守護武田信虎と抗争を繰り広げており、大井氏は駿河国の今川氏と結び武田氏に対抗した。武田氏との和睦後に信達の娘(大井夫人)は信虎正室となり嫡男晴信(信玄)を産んでいる。長禅寺住職岐秀元伯は晴信の学問における師となり、永禄2年(1559年)に晴信が出家した際には大導師を務めている。

そのため晴信は国主となった後に長禅寺を庇護しており、古長禅寺境内には大井夫人の宝篋印塔など中世段階の石造物が現存している。大井夫人は天文21年(1552年)に死去しているが、晴信は同時期に寺を2分し、そのうち1つを甲府の愛宕山南麓に移転して甲府五山のひとつに定めとしたことから、残されたこの寺は古長禅寺と号した。

2006年(平成18年)には山梨県埋蔵文化財センターによる「山梨県内中世寺院分布調査」の一環として境内の発掘調査が実施される。調査区域からは古墳時代中期からの遺物が検出され、平安時代の土器片、近世に至る遺物や基壇と推定される中世から近世の建物遺構が検出されている。また、本堂南側にも未調査の基壇が確認されているほか、寺域の東や北側からは土塁の存在も確認され、寺の防御施設や館跡の可能性が考えられている。

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