きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
北口本宮冨士浅間神社ではいただけません
広告
北口本宮冨士浅間神社のお参りの記録(3回目)
投稿日:2021年09月12日(日)
参拝:2021年7月吉日
北口本宮富士浅間神社は、他の浅間神社とは一線を画していて気軽に立ち寄れない感じを受けてしまい、なかなか訪れられない神社です。悪い意味ではなくあくまで個人的な感想です😆
言葉では表現しにくいのですが、きちんと参拝したい素敵な場所です。
浅間神社巡っていると殆どの神社では木花咲耶姫の優しい気に満ちてるのですが時折厳しさを感じる場所もあります。そこが浅間神社の魅力なのかも知れません。
富士山信仰のメッカとも言える「北口本宮冨士浅間神社」には、こんな由緒があります。
――富士山は活火山、昔の人にとって、ひんぱんに起こる噴火は大きな脅威でした。最も古い記録として、天応元年(781)駿河国(静岡県)に「噴火の降灰によって木々の葉がボロボロになった」と『続日本紀』に見られます。奈良時代末期から平安期にかけて富士山の噴火活動は活発化。貞観6年(864)の大噴火の頃、人々は富士山を「浅間大神」と呼ぶようになります。やがて人々は鎮火祈願の儀式へとかり立てられ、それが噴火の山の「アサマの神」を祀る「浅間神社」となるのです。
北口本宮冨士浅間神社が現在地に建立されたのは、景行天皇40年(110)、日本武尊東征の折、当地の「大塚丘」(西側登山鳥居から南に400mほど)に立ち寄り、美しい富士を仰ぎ「この地より拝すべし」と勅した、という言い伝えによるそうです。現在の大塚丘は雑木林に囲まれてうっかりすると見落としてしまいそうですが、「日本武尊を祀る小さな祠は、パワースポットとして人気です。
天応の噴火を機に、延暦7年(788)、甲斐国守の紀豊庭が現在地、大塚丘の北側に社殿を建立、富士山を拝み祭祀を行うために浅間大神を祀りました。時代は下り永禄4年(1561)、武田信玄が再建した社殿が「東宮本殿」で、現存する中では最も古く本殿東側にあります。現在の本殿は、元和元年(1615)鳥居土佐守成次殿の創建によるもの、拝殿奥にある壮麗な内部は残念ながら一般公開されていません。
言葉では表現しにくいのですが、きちんと参拝したい素敵な場所です。
浅間神社巡っていると殆どの神社では木花咲耶姫の優しい気に満ちてるのですが時折厳しさを感じる場所もあります。そこが浅間神社の魅力なのかも知れません。
富士山信仰のメッカとも言える「北口本宮冨士浅間神社」には、こんな由緒があります。
――富士山は活火山、昔の人にとって、ひんぱんに起こる噴火は大きな脅威でした。最も古い記録として、天応元年(781)駿河国(静岡県)に「噴火の降灰によって木々の葉がボロボロになった」と『続日本紀』に見られます。奈良時代末期から平安期にかけて富士山の噴火活動は活発化。貞観6年(864)の大噴火の頃、人々は富士山を「浅間大神」と呼ぶようになります。やがて人々は鎮火祈願の儀式へとかり立てられ、それが噴火の山の「アサマの神」を祀る「浅間神社」となるのです。
北口本宮冨士浅間神社が現在地に建立されたのは、景行天皇40年(110)、日本武尊東征の折、当地の「大塚丘」(西側登山鳥居から南に400mほど)に立ち寄り、美しい富士を仰ぎ「この地より拝すべし」と勅した、という言い伝えによるそうです。現在の大塚丘は雑木林に囲まれてうっかりすると見落としてしまいそうですが、「日本武尊を祀る小さな祠は、パワースポットとして人気です。
天応の噴火を機に、延暦7年(788)、甲斐国守の紀豊庭が現在地、大塚丘の北側に社殿を建立、富士山を拝み祭祀を行うために浅間大神を祀りました。時代は下り永禄4年(1561)、武田信玄が再建した社殿が「東宮本殿」で、現存する中では最も古く本殿東側にあります。現在の本殿は、元和元年(1615)鳥居土佐守成次殿の創建によるもの、拝殿奥にある壮麗な内部は残念ながら一般公開されていません。
すてき
投稿者のプロフィール
のぶさん1577投稿
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば神主さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
神主さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。