いみのみやじんじゃ
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忌宮神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年11月26日(火)
参拝:2024年11月吉日
山口県下関市長府に鎮座する忌宮神社(いみのみやじんじゃ)に参拝。
昨日投稿した功山寺から1kmも離れていないところになります。
この日は「城下町長府時代祭り」が開催されており、ちょうどこちらに到着したタイミングで功山寺に向けて出陣するところでした。
お祭りということもあり、境内には多くの方が訪れており、駐車場も境内ではなく少し離れた長府中学校に案内されました。
ちなみにこの長府中学校、校門からグランドまで150mほどの上り坂で、毎日ここを通る生徒さんたちは投稿するだけで体が鍛えられそうです😆
境内には、豊浦宮に攻め寄せた新羅の武将・塵輪を仲哀天皇が射倒し、その首を埋めたとされる場所に石が置かれ、「鬼石」と呼ばれているのだそうです。
その鬼石を見ようと思っていたのですが、境内の混雑ぶりにすっかり忘れていて見落としてしまいました😅
<御祭神>
仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
<御由緒>~忌宮神社HPより~
「古事記」「日本書紀」等の書物によれば、九州の熊襲平定のため西下された仲哀天皇と神功皇后は、本州の西端で九州を真向こうに見据える要衝のこの地に8年正月までご滞在になり、斎宮を建て神祇を祀られたのが忌宮の起りとされております。のち聖武天皇の神亀5年(728)、神託によって筑前香椎宮より神功皇后の神霊を勧請して中殿に奉斎し、相殿として仲哀天皇、応神天皇をお祀したと伝えられております。
またの社伝によれば、9年2月に香椎で崩御せられた仲哀天皇の御屍を、皇后は武内宿禰に命じて海路より穴門に遷されたという殯斂の地が神社の南方500メートルの丘にあり、天皇の神霊を鎮守した御社を行宮にちなんで豊浦宮と称し、くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称する三殿別立の神社でございましたが、中世の火災により豊浦宮、豊明宮が焼失し、忌宮に合祀したと伝えられております。
昨日投稿した功山寺から1kmも離れていないところになります。
この日は「城下町長府時代祭り」が開催されており、ちょうどこちらに到着したタイミングで功山寺に向けて出陣するところでした。
お祭りということもあり、境内には多くの方が訪れており、駐車場も境内ではなく少し離れた長府中学校に案内されました。
ちなみにこの長府中学校、校門からグランドまで150mほどの上り坂で、毎日ここを通る生徒さんたちは投稿するだけで体が鍛えられそうです😆
境内には、豊浦宮に攻め寄せた新羅の武将・塵輪を仲哀天皇が射倒し、その首を埋めたとされる場所に石が置かれ、「鬼石」と呼ばれているのだそうです。
その鬼石を見ようと思っていたのですが、境内の混雑ぶりにすっかり忘れていて見落としてしまいました😅
<御祭神>
仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
<御由緒>~忌宮神社HPより~
「古事記」「日本書紀」等の書物によれば、九州の熊襲平定のため西下された仲哀天皇と神功皇后は、本州の西端で九州を真向こうに見据える要衝のこの地に8年正月までご滞在になり、斎宮を建て神祇を祀られたのが忌宮の起りとされております。のち聖武天皇の神亀5年(728)、神託によって筑前香椎宮より神功皇后の神霊を勧請して中殿に奉斎し、相殿として仲哀天皇、応神天皇をお祀したと伝えられております。
またの社伝によれば、9年2月に香椎で崩御せられた仲哀天皇の御屍を、皇后は武内宿禰に命じて海路より穴門に遷されたという殯斂の地が神社の南方500メートルの丘にあり、天皇の神霊を鎮守した御社を行宮にちなんで豊浦宮と称し、くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称する三殿別立の神社でございましたが、中世の火災により豊浦宮、豊明宮が焼失し、忌宮に合祀したと伝えられております。
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