るりこうじ|曹洞宗|保寧山
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山口市香山町にある曹洞宗のお寺さんです。 2024年、アメリカの「The New York Times」が、 「52 Places to Go in 2024(2024年行くべき52カ所)」を発表。その中で山口市が選ばれ、その中でも特に「瑠璃光寺五重塔」が紹介されたそうです。
それより以前に知り合いの話で知ったお寺さんでして、ずっと気になっていたお寺さんです。今回ご縁あり、お参りすることができました。やはり実際に目の当たりにすると、想像以上。"美しい"です。言葉失いました。😯
山号:保寧山(ほねいさん)
宗派:曹洞宗
ご本尊:薬師如来
創建:1471年(文明3年)

【山門】
室町時代大内義弘が香積寺(こうしゃくじ)を建立したのが始まりとされています。
義弘が戦死すると弟の盛見(もりあきら)が兄を弔うために五重塔の建設を開始したのだそうです。しかし、盛見も戦死。五重塔が完成したのは、1442年(嘉吉2年)頃だったそうです。


【保寧山(ほねいさん)瑠璃光寺(るりこうじ)】
本尊:薬師如来
宗派:曹洞宗
開基:陶弘房(すえ ひろふさ)夫人
~『百寺巡礼』五木寛之氏が選んだ百の名刹 第77番~
瑠璃光寺は、山口県山口市香山町に位置します。瑠璃光寺の成り立ちは複雑です。まず安養寺というお寺が、1471(文明3)年に、場所はここではなく現山口市仁保下郷に建立されました。安養寺は、応仁の乱で大内政弘にしたがって戦った陶弘房が1468(応仁2)年に京都で戦死し、その妻が夫の死を弔うために建立した寺です。しかし、安養寺は寺域が狭かったことから、その隣の山に新たにもう一つ寺が建てられました。その寺は保寧山瑠璃光寺と名づけられ、安養寺は廃されて、跡地が瑠璃光寺に寄進されます。この保寧山瑠璃光寺という山号と寺号が現在に受けつがれています。 一方、いま瑠璃光寺が建っている場所には、もとは大内義弘が菩提寺として建てた臨済宗の香積寺(こうしゃくじ)がありました。大内義弘の死後、弟の盛見(もりはる)が兄の菩提を弔うために、香積寺の境内に五重塔の建立を発願します。完成したのが大内義弘から数えて三代目に当たる教弘(のりひろ)の時代、実に30年以上の歳月を要しました。この塔が現存する瑠璃光寺の五重塔となります。
大内氏の祖とされている大内弘世(ひろよ)は、山口で周防、長門、岩見の守護として君臨し、京都を模した町づくりに取り組みました。山口は「西の京都」と呼ばれ、この時代に花開いた文化は、「大内文化」と称されました。1551(天文20)年、当時の当主であった大内義隆は、家臣の陶晴賢(すえはるかた)の謀反によって討たれてしまいます。主君を裏切った陶晴賢もまた毛利元就に敗れました。そして毛利元就は周防と長門を領有し、さらに尼子氏も討って中国地方八ヶ国を領有する大名となりました。この時点ではまだ香山町には大内氏の菩提寺の香積寺がありました。
その後、毛利氏も輝元の時代に関ヶ原の戦いで敗れ所領を没収されてしまいます。家康は、毛利氏が山口や長門に城をもつことを許さず、萩に移封しました。1604(慶長9)年、毛利氏の萩への移転に伴って、香積寺は萩に移築されることになります。解体され、毛利氏の萩城内の建物の材料に使われたようです。このとき、五重塔もほかの伽藍といっしょに解体され、萩へ運ばれるはずでしたが、移されることをまぬがれています。これは、山口の町民たちが嘆願書を出して、塔をここに残してほしいと運動したためだったといわれています。それから80年あまりたった1690(元禄3)年、前述の瑠璃光寺が香積寺の跡地に移転します。その時から、香積寺の五重塔は、瑠璃光寺の所轄の塔に変わりました。
~『百寺巡礼 第八巻 山陰・山陽』五木寛之(講談社、2005)~
梅の花が咲く良い季節に訪れることができました。青空に向かって屹然とそびえる五重塔はとても美しいです。醍醐寺(京都市)や法隆寺(奈良県斑鳩町)にある五重塔とともに日本三名塔の一つに数えられています。
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