耕田院の日常(383回目)|山形県羽前大山駅
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投稿日:2024年02月17日(土)
輪橋山徒然話 2024-2-17. 「心の所在」
自らの「こころ」はどこかにあるのではなく、自らが「置く」のだという話を書いた。
→心の所在を「臍下丹田」に置く (輪橋山 徒然話 2024-2-11)
次のような感想を頂いた。
◆おはようございます。「こころ」のお話、ありがとうございました。
「こころ」とは……、「宇宙」と同じではないかと思う時があります。
「宇宙」が人の中に閉じ込められたのが「こころ」なのかも……。
そして、坐禅のときの法界定印の手の中に
「こころ」はとりだせるのかも知れないなと思いました。
毎朝、「こころ」が固まらないよう手の中であたため、
揉んでやろうと思います。
◆禅宗のお坊さまらしい一言である。このコメントを読んだのはその日の夜。
一杯いただいた後だった。失礼な返信をしてしまった。
「こころ」をもんでやろうと思うのは、
やっぱり「こころ」なのでしょうか⁉️
酔っ払ってきたぞ。
◆あまりの次元の違う話に戸惑われたのだろう。
うン~、よくわからないぞォ~。
という返信。
◆しかし、有り難いことに次の日の朝には、ご返事を頂いた。
「揉んでやろうと思う心」を取り出して揉んでやるのだと思います。
その時、「揉んでる心」と「揉まれる心」とは別物であるけども、
それが一緒になるように揉んでいくという感じでしょうか。
◆あれだ。鈴木大拙師が「心」について、
「一つが二つに分れて、見られるのではなく、一つが、一つを、一つと、見る」
と説かれていたのを思い出した。
※(「新編 東洋的な見方」から)
鈴木大拙師曰く
禅の本分は -略- 自分自身の奥の奥にあるものを、体得するところにある。
単なる概念的把握でなくて、感覚の上で、声を聞いたり、色を見たり、香をかぐなどするように、心自体が自体を契証する経験である。
形も見たり、声を聞くと言うと、聞くものと聞かれるもの、見るものと見られるものとの二つがあって、相対峙することとなる。
ところが、心自体の場合では、 -略-
見るものが、見られるもの、見られるものが見るものである。一つが二つに分れて、見られるのでなくて、一つが、一つを、一つと、見るのである。
ただ言葉の上に出すときは、一つとか二つとかいうが、心自体の場合には、この種の言い方は当てはまらぬのである。それゆえ、見て見ず、見ずして見るなどと、矛盾したことをいう。
◆「一つが、一つを、一つと、見る」とは「見て見ず、見ずして見る」こと。それが、「心」であるのだ。それは、「こころ」が固まらないよう手の中であたため、揉んでやろうとすることであり、「臍下丹田」に置いて練るということなのだ。
いつもニコニコオンハラタテマイゾヤソワカ
#心は大山
#輪橋山徒然話
#心の所在
#鈴木大拙
#臍下丹田
#こころを揉む
#こころを置く
#こころを練る
#一つが一つを一つと見る
#霞城公園
#山形市
自らの「こころ」はどこかにあるのではなく、自らが「置く」のだという話を書いた。
→心の所在を「臍下丹田」に置く (輪橋山 徒然話 2024-2-11)
次のような感想を頂いた。
◆おはようございます。「こころ」のお話、ありがとうございました。
「こころ」とは……、「宇宙」と同じではないかと思う時があります。
「宇宙」が人の中に閉じ込められたのが「こころ」なのかも……。
そして、坐禅のときの法界定印の手の中に
「こころ」はとりだせるのかも知れないなと思いました。
毎朝、「こころ」が固まらないよう手の中であたため、
揉んでやろうと思います。
◆禅宗のお坊さまらしい一言である。このコメントを読んだのはその日の夜。
一杯いただいた後だった。失礼な返信をしてしまった。
「こころ」をもんでやろうと思うのは、
やっぱり「こころ」なのでしょうか⁉️
酔っ払ってきたぞ。
◆あまりの次元の違う話に戸惑われたのだろう。
うン~、よくわからないぞォ~。
という返信。
◆しかし、有り難いことに次の日の朝には、ご返事を頂いた。
「揉んでやろうと思う心」を取り出して揉んでやるのだと思います。
その時、「揉んでる心」と「揉まれる心」とは別物であるけども、
それが一緒になるように揉んでいくという感じでしょうか。
◆あれだ。鈴木大拙師が「心」について、
「一つが二つに分れて、見られるのではなく、一つが、一つを、一つと、見る」
と説かれていたのを思い出した。
※(「新編 東洋的な見方」から)
鈴木大拙師曰く
禅の本分は -略- 自分自身の奥の奥にあるものを、体得するところにある。
単なる概念的把握でなくて、感覚の上で、声を聞いたり、色を見たり、香をかぐなどするように、心自体が自体を契証する経験である。
形も見たり、声を聞くと言うと、聞くものと聞かれるもの、見るものと見られるものとの二つがあって、相対峙することとなる。
ところが、心自体の場合では、 -略-
見るものが、見られるもの、見られるものが見るものである。一つが二つに分れて、見られるのでなくて、一つが、一つを、一つと、見るのである。
ただ言葉の上に出すときは、一つとか二つとかいうが、心自体の場合には、この種の言い方は当てはまらぬのである。それゆえ、見て見ず、見ずして見るなどと、矛盾したことをいう。
◆「一つが、一つを、一つと、見る」とは「見て見ず、見ずして見る」こと。それが、「心」であるのだ。それは、「こころ」が固まらないよう手の中であたため、揉んでやろうとすることであり、「臍下丹田」に置いて練るということなのだ。
いつもニコニコオンハラタテマイゾヤソワカ
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#輪橋山徒然話
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