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耕田院の日常(343回目)山形県羽前大山駅

宮沢賢治最後の手紙にみる「まぁるい心」

投稿日:2023年08月24日(木)
輪橋山徒然話 
◆亡くなる10日前に宮沢賢治が「教え子」に書いた手紙を読んだ。

 -略-

風のなかを自由に歩けるとか、

はっきりした声で 何時間も話ができるとか、

じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことは

できないものから見れば 神の業にもひとしいものです。

そんなことは もう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、

本気に観察した世界の実際と 余り〔に〕遠いものです。

どうか 今の(ご)生活を大切にお護り下さい。

うわのそらでなしに、しっかり落ちついて、

一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、

苦しまなければならないものは 苦しんで生きて行きましょう

いろいろ生意気なことを書きました。

病苦に免じて赦して下さい。

◆二年にも及ぶ自宅での闘病生活。1933年、37歳の若さでこの世を去る宮沢賢治。死の10日前の昭和8年9月11日に花巻農学校時代の教え子だった柳原昌悦氏宛に送った手紙である。

◆柳原氏は明治42年生まれで,花巻農学校入学1年後,賢治が学校を辞めることになった際,彼はストライキを計画し、賢治の退職を引き止めようとした。しかし、貴方が考えているような理由で辞めるのではないと賢治に諭されたという逸話の教え子だ。

◆柳原氏は,岩手師範学校を卒業し、小学校教員。新聞で賢治の死を知ると,この手紙を握ったまま駆けつけ,祭壇でそれを捧げて慟哭したという。

◆互いに通じ合う二人。彼は、「生徒」ではなく、志を同じくする同朋、賢治の分身なのだろう。だからこそ、最期にあっても「うわのそらでなしに、しっかり落ちついて」と諭す賢治がいる。

◆私は、賢治の思想やそのレトリックは非常に魅力であるのだが、童話も詩も至極難解だと思っている。教室で「やまなし」「ゆきわたり」「銀河鉄道の夜」などとなど、その読み解きに苦労した思い出がある。

◆しかし、この手紙の簡潔さとそこに流れる純情さはなんだろう。人間宮沢賢治の「まぁるい心」そりものなのではないかと思った。

◆さて、 賢治の最期の言葉は「ああ、いいきもちだ」だ。賢治はオキシフルを付けた消毒綿で手と首と体を拭き、この言葉を繰り返したそうだ。
 
★☆★☆★☆★☆★☆

◯寂聴さんはいう。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩は、まさしく観音行を現しています。苦しんでいる人や悲しんでいる人のところに飛んでいって慰める、これが観音行です

◯寂聴さんは賢治と時と同じ岩手の地で布教に励まれた。「雨ニモマケズ」を唱えれば、相手を思いやる想像力が自然に生まれてくるという。「雨ニモマケズ」がありがたい仏の真言なのだ。

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