耕田院の日常(294回目)|山形県羽前大山駅
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投稿日:2023年06月17日(土)
般若心経の「無無明亦 無無明尽 むむみょうやく むむみょうじん」の無明とは、心に明かりがないという意味だと瀬戸内寂聴さんはいう。心が真っ暗だということだ。迷いの中にあるということだ。今朝はその無明に光がさした童話から。
輪橋山徒然話2023/6/1
◆誰でも知っている「泣いた赤鬼」。作者である浜田広介が120年以上も前に書いた話がある。「ひとつのねがい」という話だ。
「ひとつのねがい」
◆主人公は年老いてよぼよぼになった街灯だ。街灯の嘆きと諦めから始まる。
街灯は、「年をとって、たおれることは、この、おれひとりじゃない。みんな、そうなんだ。二本足の人間だって、きっと、それに、ちがいない」と思うのが、男らしい諦めなんだと決めていた。
◆ところが、本当は、なかなか諦めきれない。実は街灯には願いが一つあったのだ
「一生に、たった一度だけでいい、星のような、あかりくらいになってみたい」
◆しかし、それは無理なことも知っていた。
街灯は、「もうもう、かまわない。星のようにみえなくたっても、おれは、ただ、だまって光っておればよい。それが、おれのつとめなのだ。このままで、この一生がおわってしまう。それでよい。」と自分で自分を慰める。
◆「それでよい」。街灯の心に静かに湧きあがってきた思いだ。そして、気を引き締めて、頭をしっかり持ちあげた。そこにはみすぼらしくても背筋を伸ばし「立派」な街灯がある。
そこへ、父と息子の親子が通りかかり、息子が「とうさん、ここんとこ あかるいね」と言うと、父親も「ああ、これがなくっちゃ あるけない。こんな晩には、わけても、なおさらさ。」と応える。
◆電灯を認める親子の声。さらに続く。
真っ暗な雲の切れ間に星を見つけて「あの星よりも、あかるいなあ。」と息子が声を上げる。
強い風邪に必死で耐えていた街灯は、「かなった。かなった。おれのねがいが。」我を忘れて、叫ぶ。
◆次の日の朝倒れている街灯があるが、誰も目を止めない。
◆120年以上前の童話だ。人間誰しもが抱える悩みや苦しみは不変であるということがよくわかる。年老いて寂寥感のなかで健気な街灯に起きた小さな奇跡は、読むものに感動を与える。
◆この話に学ばねばならないことが三つあると思う。
◆一つは「人生」を締めくくるということだ。その条件は「自己受容」。つまり、年をとることは避けられない自然の過程であり、その中にある自分を受け入れることだ。自分を愛することだ。
◆二つ目は、自分自身の生き方として「目指すべきもの」を持つこと。街灯の場合は「星のような、あかりくらいになってみたい」という願いだ。いかなる状況でも何かを追求するというのが、人としての本質だ。
◆三つ目は「他とのつながり」だ。自らの存在の価値を実感できないことが街灯の孤独につながった。しかし、他者によって認められ、自身の存在価値を再認識できた。つまり、他者からの評価や認知が、自分自身の存在価値を見つける助けとなることを示している。
◆さて、「他とのつながり」でいえば、コロナ禍でのリモートを経た今、上司と部下の関係であっても、恋人同士でも。「目が口ほどにものをいう」「顔色を伺う」「空気を読む」という雰囲気の時代には戻らないと考えたほうがよいと思う。これらのものが曖昧であることに気がついたリモート時代ではなかったかと思う。
◆だからこそ、雰囲気と空気とか曖昧なものだけに頼らず、たとえばお互いに「ことばで感情を添える努力」が大事なのだと思う。感性を育て言葉を磨く努力をせねばならないと思う。
◆いつもニコニコ、一筆啓上付箋写経。
※ひとつのねがい 浜田広介 絵 しまだ・しほさん 理論社
ブログとHP↓
lit.link/oyama1049
輪橋山徒然話2023/6/1
◆誰でも知っている「泣いた赤鬼」。作者である浜田広介が120年以上も前に書いた話がある。「ひとつのねがい」という話だ。
「ひとつのねがい」
◆主人公は年老いてよぼよぼになった街灯だ。街灯の嘆きと諦めから始まる。
街灯は、「年をとって、たおれることは、この、おれひとりじゃない。みんな、そうなんだ。二本足の人間だって、きっと、それに、ちがいない」と思うのが、男らしい諦めなんだと決めていた。
◆ところが、本当は、なかなか諦めきれない。実は街灯には願いが一つあったのだ
「一生に、たった一度だけでいい、星のような、あかりくらいになってみたい」
◆しかし、それは無理なことも知っていた。
街灯は、「もうもう、かまわない。星のようにみえなくたっても、おれは、ただ、だまって光っておればよい。それが、おれのつとめなのだ。このままで、この一生がおわってしまう。それでよい。」と自分で自分を慰める。
◆「それでよい」。街灯の心に静かに湧きあがってきた思いだ。そして、気を引き締めて、頭をしっかり持ちあげた。そこにはみすぼらしくても背筋を伸ばし「立派」な街灯がある。
そこへ、父と息子の親子が通りかかり、息子が「とうさん、ここんとこ あかるいね」と言うと、父親も「ああ、これがなくっちゃ あるけない。こんな晩には、わけても、なおさらさ。」と応える。
◆電灯を認める親子の声。さらに続く。
真っ暗な雲の切れ間に星を見つけて「あの星よりも、あかるいなあ。」と息子が声を上げる。
強い風邪に必死で耐えていた街灯は、「かなった。かなった。おれのねがいが。」我を忘れて、叫ぶ。
◆次の日の朝倒れている街灯があるが、誰も目を止めない。
◆120年以上前の童話だ。人間誰しもが抱える悩みや苦しみは不変であるということがよくわかる。年老いて寂寥感のなかで健気な街灯に起きた小さな奇跡は、読むものに感動を与える。
◆この話に学ばねばならないことが三つあると思う。
◆一つは「人生」を締めくくるということだ。その条件は「自己受容」。つまり、年をとることは避けられない自然の過程であり、その中にある自分を受け入れることだ。自分を愛することだ。
◆二つ目は、自分自身の生き方として「目指すべきもの」を持つこと。街灯の場合は「星のような、あかりくらいになってみたい」という願いだ。いかなる状況でも何かを追求するというのが、人としての本質だ。
◆三つ目は「他とのつながり」だ。自らの存在の価値を実感できないことが街灯の孤独につながった。しかし、他者によって認められ、自身の存在価値を再認識できた。つまり、他者からの評価や認知が、自分自身の存在価値を見つける助けとなることを示している。
◆さて、「他とのつながり」でいえば、コロナ禍でのリモートを経た今、上司と部下の関係であっても、恋人同士でも。「目が口ほどにものをいう」「顔色を伺う」「空気を読む」という雰囲気の時代には戻らないと考えたほうがよいと思う。これらのものが曖昧であることに気がついたリモート時代ではなかったかと思う。
◆だからこそ、雰囲気と空気とか曖昧なものだけに頼らず、たとえばお互いに「ことばで感情を添える努力」が大事なのだと思う。感性を育て言葉を磨く努力をせねばならないと思う。
◆いつもニコニコ、一筆啓上付箋写経。
※ひとつのねがい 浜田広介 絵 しまだ・しほさん 理論社
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