耕田院の日常(264回目)|山形県羽前大山駅
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投稿日:2023年05月02日(火)
二人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは 長持ちしないことだと 気づいているほうがいい
◆吉野弘さんの祝婚歌である。
◆吉野弘さんがかもしれないと教えている詩を見つけた。
◆「虹の足」という詩だ。
◆虹の足とは、虹と地面をつなぐ部分のことである。虹の橋の入り口だ。
虹の足 吉野 弘
雨があがって
雲間から
乾麺みたいに真直な
陽射しがたくさん地上に刺さり
行手に榛名山が見えたころ
山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。
◆榛名山とは埼玉県の山。山路を登るバスの中で虹の足をみた。雲の切れ目から真っ直ぐな光の柱が何本もさす雨上がりの情景だ。バスは峠の道を登っているのであろうか。作者は晴れた空と前方の榛名山をみている。そして、視線を移す。
眼下にひろがる田圃の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!
野面にすらりと足を置いて
虹のアーチが軽やかに
すっくと空に立ったのを!
◆視線を移した先に見えたのは虹の足だ。眼下にひろがるとは、下の方にという意味だ。つまり、下の方に目をやると、虹の足がすくっと地面に降りて、虹のアーチを立てたというのだ。虹の完成だ。
その虹の足の底に
小さな村といくつかの家が
すっぽり抱かれて染められていたのだ。
それなのに
家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。
―――おーい、君の家が虹の中にあるぞオ
乗客たちは頬を火照らせ
野面に立った虹の足に見とれた。
◆虹が、自分の足で大地に立ったというのだ。すごい情景だ。その虹の足が小さな村をすっぽり抱いているのだ。乗客は、興奮し「おーい、君の家が虹の中にあるぞオ」と伝えようとするが、村の人間は気が付かない。詩人は続ける。
多分、あれはバスの中の僕らには見えて
村の人々には見えないのだ。
そんなこともあるのだろう
他人には見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることが――。
◆吉野弘さんが語る。
この虹の橋を書くきっかけになった虹はかなり珍しい状態。雨がやみ榛名山の上空に発生した虹の足が緩やかな弧を描きながら横に長く平野部まで伸びて来て、その先端を広い田んぼの一角におろしたのです…
略
…私は虹の見える位置が太陽を背にした時の位置であることに気づき、あの時の虹の橋は太陽を背にしたバスの乗客には見えても、虹の足の中の村人たちには見えなかったはずだと気付きました。 「虹の足」成立事情より
◆詩人が見つけたのは、他人には見えて、自分には見えないものがあるという事実だ。気が付かないだけで、価値あるものを携えている自分自身がいることだ。
◆だから、たとえば皆が望むような幸せの中にあっても、気が付かないのだ。それが人間だとすれば、それだけで不幸である。なぜならば、失って不幸になり、そこで初めて気が付く価値だからである。
◆瀬戸内寂聴さんもまた、道理を説き、励ます。
人間の「欲」というものには限りがありません。もし十が手に入ったら、次は二十が欲しくなる、二十が手に入ったら、今度は百が欲しくなるというふうに、欲には限りがありません。それが人の心を惑わせ、苦しくさせる大きな原因の一つです。
ですから、小さいもの、例えば十が手に入ったら、「ああ、よかった。これで私は幸せだ」と思って、そこで満足ができる人は余計に悩んだり、苦しんだりすることがないので幸せだという意味です。
◆皆様。たまには「どうしたら幸せになれるか」と考えることをお休みにして、今十分幸せなのだからと「虹の足」の方から遡って考える休日にしてはどうだろう。
◆いつもニコニコ、一筆啓上付箋写経。lit.link/oyama1049
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは 長持ちしないことだと 気づいているほうがいい
◆吉野弘さんの祝婚歌である。
◆吉野弘さんがかもしれないと教えている詩を見つけた。
◆「虹の足」という詩だ。
◆虹の足とは、虹と地面をつなぐ部分のことである。虹の橋の入り口だ。
虹の足 吉野 弘
雨があがって
雲間から
乾麺みたいに真直な
陽射しがたくさん地上に刺さり
行手に榛名山が見えたころ
山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。
◆榛名山とは埼玉県の山。山路を登るバスの中で虹の足をみた。雲の切れ目から真っ直ぐな光の柱が何本もさす雨上がりの情景だ。バスは峠の道を登っているのであろうか。作者は晴れた空と前方の榛名山をみている。そして、視線を移す。
眼下にひろがる田圃の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!
野面にすらりと足を置いて
虹のアーチが軽やかに
すっくと空に立ったのを!
◆視線を移した先に見えたのは虹の足だ。眼下にひろがるとは、下の方にという意味だ。つまり、下の方に目をやると、虹の足がすくっと地面に降りて、虹のアーチを立てたというのだ。虹の完成だ。
その虹の足の底に
小さな村といくつかの家が
すっぽり抱かれて染められていたのだ。
それなのに
家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。
―――おーい、君の家が虹の中にあるぞオ
乗客たちは頬を火照らせ
野面に立った虹の足に見とれた。
◆虹が、自分の足で大地に立ったというのだ。すごい情景だ。その虹の足が小さな村をすっぽり抱いているのだ。乗客は、興奮し「おーい、君の家が虹の中にあるぞオ」と伝えようとするが、村の人間は気が付かない。詩人は続ける。
多分、あれはバスの中の僕らには見えて
村の人々には見えないのだ。
そんなこともあるのだろう
他人には見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることが――。
◆吉野弘さんが語る。
この虹の橋を書くきっかけになった虹はかなり珍しい状態。雨がやみ榛名山の上空に発生した虹の足が緩やかな弧を描きながら横に長く平野部まで伸びて来て、その先端を広い田んぼの一角におろしたのです…
略
…私は虹の見える位置が太陽を背にした時の位置であることに気づき、あの時の虹の橋は太陽を背にしたバスの乗客には見えても、虹の足の中の村人たちには見えなかったはずだと気付きました。 「虹の足」成立事情より
◆詩人が見つけたのは、他人には見えて、自分には見えないものがあるという事実だ。気が付かないだけで、価値あるものを携えている自分自身がいることだ。
◆だから、たとえば皆が望むような幸せの中にあっても、気が付かないのだ。それが人間だとすれば、それだけで不幸である。なぜならば、失って不幸になり、そこで初めて気が付く価値だからである。
◆瀬戸内寂聴さんもまた、道理を説き、励ます。
人間の「欲」というものには限りがありません。もし十が手に入ったら、次は二十が欲しくなる、二十が手に入ったら、今度は百が欲しくなるというふうに、欲には限りがありません。それが人の心を惑わせ、苦しくさせる大きな原因の一つです。
ですから、小さいもの、例えば十が手に入ったら、「ああ、よかった。これで私は幸せだ」と思って、そこで満足ができる人は余計に悩んだり、苦しんだりすることがないので幸せだという意味です。
◆皆様。たまには「どうしたら幸せになれるか」と考えることをお休みにして、今十分幸せなのだからと「虹の足」の方から遡って考える休日にしてはどうだろう。
◆いつもニコニコ、一筆啓上付箋写経。lit.link/oyama1049
すてき
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