耕田院の日常(226回目)|山形県羽前大山駅
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投稿日:2023年03月23日(木)
輪橋山徒然話 伊達政宗公に学ぶ「執着」と「執着を断つ」ということについて考える。
◆戦国大名伊達政宗公は、独眼竜といわれた知略・肝力ともに秀でた武将であった。
◆その政宗公に「茶碗」というエピソードがある。戦国時代は「茶碗」が重宝された。その中には「その価値、一国相当なり」といわれるものもあったそうだ。
◆さて、伊達政宗公が、愛する茶碗を庭先で眺めていた時のことだ。
◆政宗公が茶碗に見とれていると、何かの拍子にその茶碗を落としそうになったという。かろうじて落とさずに済んで「よかった」と思った瞬間、政宗公は、はっと我に返った。
◆政宗公は今まで、若い頃より何度となく戦いに加わり、命がけでここまできた。絶体絶命の修羅場もくぐり抜けてきた。そんな自分が、たった茶碗一つに、冷や汗を流すほど心を動揺させられてしまったことに驚いたのだ。
◆戦国一の武将とも言われる政宗公が、冷や汗を流すほどの心の動揺の原因はいったい何だったのか。
◆それは、茶碗に対する執着が作り出した「失うことへの恐怖心」なのだ。「割れてしまったら、同じものはもう拝めない」という執着心なのである。そう政宗公は茶碗一つに囚われていると自分自身を解釈したのだ。
◆この後、政宗公はどうしたであろうか。
◆政宗公は、「心を乱す」この執着心を捨て去ればよいと、愛する茶碗を庭に叩きつけて、粉々にしたのである。茶碗も執着心も同時に捨て去ったのである。「一国相当なり」の茶碗を、である。
◆さて、「伊達政宗五常訓」の中でも「過ぎれば」という言葉でこの「執着心」を戒めている。
◉仁に過ぎれば弱くなる。
▶︎人を大切に思うことは大事だが、行き過ぎると他人の為にも、自分の為にもならない。
◉義に過ぎれば固くなる。
▶︎正義や筋を通すことは大切だが、そればかりに縛られると、物事に柔軟に対応できず、融通がきかなくなる。
◉礼に過ぎれば諂(へつら)いとなる。
▶︎礼を尽くすことは大事だが、礼ばかりに囚われたり、また行き過ぎた礼は、相手に対して逆に失礼で、嫌味になる。
◉智に過ぎれば嘘をつく。
▶︎智略は大切であるが、そればかりに囚われてしまうと結果として嘘をついたり、策に溺れることになる。
◉信に過ぎれば損をする
▶︎人を信用することは大切だ。人に頼り、信用しすぎると取り返しのつかないことになる。
◆ポイントはやはり「過ぎる」ということである。「過ぎたるは及ばざるが如し」なのである。政宗公が、繰り返す「過ぎる」と執着であり、「偏り(かたより)」ということなのだ。
◆この「伊達政宗五常訓」は続きがある。
儉約の仕方は不自由を忍ぶにあり。
此の世に客に來たと思へば何の苦もなし。
朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。
元來客の身なれば好嫌は申されまじ。
今日の行をおくり、子孫兄弟によく挨拶をして、娑婆の御暇申すがよし。
◆ポイントは「此の世に客に來たと思へば、何の苦もなし」だ。
◆つまり、この世に「客」として生まれて来て、この世を去るのであるから、何ひとつ苦しいことはない。だから、朝夕食べる食事は、おいしくなくても、おいしいと褒めて食べねばならないし、この世の客だから、好き嫌いなどはいってはならない。間もなく、この世を客として旅立つが、その時は子や孫や兄弟に感謝の声をかけて、旅立っていくのがよい。
◆この「伊達政宗五常訓」は、徳川家康、水戸光圀と並ぶ日本三大遺訓でもある。
いつもニコニコハラタテマイゾヤソワカ。
◆戦国大名伊達政宗公は、独眼竜といわれた知略・肝力ともに秀でた武将であった。
◆その政宗公に「茶碗」というエピソードがある。戦国時代は「茶碗」が重宝された。その中には「その価値、一国相当なり」といわれるものもあったそうだ。
◆さて、伊達政宗公が、愛する茶碗を庭先で眺めていた時のことだ。
◆政宗公が茶碗に見とれていると、何かの拍子にその茶碗を落としそうになったという。かろうじて落とさずに済んで「よかった」と思った瞬間、政宗公は、はっと我に返った。
◆政宗公は今まで、若い頃より何度となく戦いに加わり、命がけでここまできた。絶体絶命の修羅場もくぐり抜けてきた。そんな自分が、たった茶碗一つに、冷や汗を流すほど心を動揺させられてしまったことに驚いたのだ。
◆戦国一の武将とも言われる政宗公が、冷や汗を流すほどの心の動揺の原因はいったい何だったのか。
◆それは、茶碗に対する執着が作り出した「失うことへの恐怖心」なのだ。「割れてしまったら、同じものはもう拝めない」という執着心なのである。そう政宗公は茶碗一つに囚われていると自分自身を解釈したのだ。
◆この後、政宗公はどうしたであろうか。
◆政宗公は、「心を乱す」この執着心を捨て去ればよいと、愛する茶碗を庭に叩きつけて、粉々にしたのである。茶碗も執着心も同時に捨て去ったのである。「一国相当なり」の茶碗を、である。
◆さて、「伊達政宗五常訓」の中でも「過ぎれば」という言葉でこの「執着心」を戒めている。
◉仁に過ぎれば弱くなる。
▶︎人を大切に思うことは大事だが、行き過ぎると他人の為にも、自分の為にもならない。
◉義に過ぎれば固くなる。
▶︎正義や筋を通すことは大切だが、そればかりに縛られると、物事に柔軟に対応できず、融通がきかなくなる。
◉礼に過ぎれば諂(へつら)いとなる。
▶︎礼を尽くすことは大事だが、礼ばかりに囚われたり、また行き過ぎた礼は、相手に対して逆に失礼で、嫌味になる。
◉智に過ぎれば嘘をつく。
▶︎智略は大切であるが、そればかりに囚われてしまうと結果として嘘をついたり、策に溺れることになる。
◉信に過ぎれば損をする
▶︎人を信用することは大切だ。人に頼り、信用しすぎると取り返しのつかないことになる。
◆ポイントはやはり「過ぎる」ということである。「過ぎたるは及ばざるが如し」なのである。政宗公が、繰り返す「過ぎる」と執着であり、「偏り(かたより)」ということなのだ。
◆この「伊達政宗五常訓」は続きがある。
儉約の仕方は不自由を忍ぶにあり。
此の世に客に來たと思へば何の苦もなし。
朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。
元來客の身なれば好嫌は申されまじ。
今日の行をおくり、子孫兄弟によく挨拶をして、娑婆の御暇申すがよし。
◆ポイントは「此の世に客に來たと思へば、何の苦もなし」だ。
◆つまり、この世に「客」として生まれて来て、この世を去るのであるから、何ひとつ苦しいことはない。だから、朝夕食べる食事は、おいしくなくても、おいしいと褒めて食べねばならないし、この世の客だから、好き嫌いなどはいってはならない。間もなく、この世を客として旅立つが、その時は子や孫や兄弟に感謝の声をかけて、旅立っていくのがよい。
◆この「伊達政宗五常訓」は、徳川家康、水戸光圀と並ぶ日本三大遺訓でもある。
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