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耕田院の日常(219回目)山形県羽前大山駅

みんな悪者なのに喧嘩のない家

投稿日:2023年03月16日(木)
◆「謗(そし)るまじ たとえ咎ある 人なりと 我が過ちは それに勝れり」

「謗(そし)る」とは悪くいうことだ。つまり悪口。
「咎」は「とが」と読む。「科」とも書く。あやまち、罪、欠点という意味だ。

◉罪を犯した人でも悪くいってはいけない。自分の過ちはそれ以上であるからという意味になる。

◆今朝はこの教えと「家中みんな悪者だから、家では喧嘩はおこらない」という一見矛盾した話が教える「清々しく生きる術」について考えたい。

『みんな悪者だと喧嘩はおこらないというお話』(高森顕徹先生)

◆ある所に、内輪ゲンカの絶えないA家と、平和そのもののB家とが隣接していた。

◆ケンカの絶えないA家の主人は、隣はどうして仲よくやっているのか不思議でたまらず、ある日、B家を訪ねて懇願した。

◆「ご承知のとおり、私の家はケンカが絶えず困っております。お宅はみなさん仲よくやっておられますが、なにか秘訣でもあるのでしょうか。一家和楽の方法があったら、どうか教えていただきたい」

◆「それはそれは、別にこれといった秘訣などございません。ただお宅さまは、善人さまばかりのお集まりだからでありましょう。
 私の家は悪人ばかりがそろっていますので、ケンカにはならないのです。ただそれだけのことです」

◆てっきり皮肉られているのだと、A家の主人は激怒して、「そんなばかな!!」と、言おうとしたとき、B家の奥で大きな音がした。

◆どうも皿かお茶碗でも割ったようである。

「お母さん、申し訳ありませんでした。私が足元を確かめずにおりましたので、大事なお茶碗をこわしてしまいました。私が悪うございました。お許しください」
心から詫(わ)びている、お嫁さんの声がする。

「いやいや、おまえが悪かったのではありません。先ほどから始末しようしようと思いながら横着して、そんなところに置いた私が悪かったのです。すまんことをいたしました」と、続いて姑さんの声が聞こえてきた。

※ここまでお話は、高森顕徹先生の『新装版 光に向かって100の花束』より。

「清々しく生きる術」

◆「なるほど」A家の主人は感心して帰ったという。なぜ、感心したのだろうか。

◆ケンカや争いが起きるのは、お互いに「自分が正しい」と考え、主張した時だ。自分が正しいと主張し認めさせるには、相手が悪いことを主張しなければならない。いうなれば、シーソーの関係なのだ。自分が上がれば、相手が下がることになる。

◆喧嘩や争いがなく、我が道を「清々しく生きる術」は、相手とのシーソーを平行に保つこと。前に動いたり、後ろにずれたりしながらお互いにコントロールすることだ。それを「おたがいさま」とゆずり合うという。その時のキーワードが「悪人」、心構えが
「謗(そし)るまじ たとえ咎ある 人なりと 我が過ちは それに勝れり」なのだ。
(罪を犯した人でも悪くいってはいけない。自分の過ちはそれ以上である)

◆このことを相談者であるA家の主人は了解したのだ。

◉最悪なのは「ごめんなさいね。わたしがわるかったわ。でも〜」である。せっかくの「清々しく生きる術」が台無しである。なぜなら、相手から返ってくることばは「そう言うおまえはどうなんだ!?」である。「夫婦喧嘩」も「学級崩壊」も「国と国との争い」もスタートはこの「でも」にありそうだ。「それを言っちゃーおしまいよ」の前にくる逆説の接続詞が「でも」なのだ。

今日もニコニコ「お互いさま」の心で、「でも」のない清々しい1日を。

◉「善」か「悪」の二元論で考えず、「のりしろ」を間にいれることが大事だ

  → https://bit.ly/41IInZz 輪橋山徒然話 ブログ
耕田院(山形県)

すてき

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