耕田院の日常(189回目)|山形県羽前大山駅
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投稿日:2023年02月14日(火)
今朝の輪橋山徒然話は「日本よ 日本 青い海 まだ守れるぞ どどんがどん」と「強いボールに強いボールは愚か」と「馬鹿な子ほどかわいい」について。
◆平成になる頃までの小学校は、忘れものには厳しかった。もし忘れたら、「隣のクラスに借りに行く」か「家に戻る」という暗黙のルールがあった。小学校に勤めた頃、忘れ物をした子どもが3㎞(帰りはじいちゃんの軽トラ)も歩いて戻るのを見て驚いた。
◆その頃、5年生の3人組が(忘れ物を取りに行くと学校を出て)バスに乗って街まで行き、ラーメンを食べて、電車で帰ってきたという話があった。「なかなかやるな」と先輩教師。しかし、大した事件になることもなく、すべてが大らかだった。彼らも45歳をとっくに超えている。もう立派な大人になっている。
◆しばらくすると一旦学校に登校したら「帰宅は許さない」という「おふれ」が出た。
◆だいたい私は、中学の頃、ほぼ毎日「忘れ物をした」といって、友だちから自転車を借りてウチに戻っていた時期がある。少々の雨でもだ。時間は母が丁度昼ごはんを食べている頃だ。そして、NHKの朝ドラ(再放送)をみる。「鳩子の海」。斎藤こず恵さんの「日本よ 日本 青い海 まだ守れるぞ どどんがどん」と口ずさみながら中学をエスケープ。
◆藤田美保子さんが印象的だった。大好きだった。夏八木勲さんも若かった。ビデオのない時代だ。母の昼ごはんをつまみ食いして、掃除の時間までに戻る。今でも夢に見るほど自由だった。気持ちよかった。成績はもちろん悪かった。
◆当時中学は500人くらいの生徒数。一人が休み時間いなくなっても誰も気づかない。先生方も自由だった。私は「うかつ」な中学生だったので、夜、宿題プリントを取りに学校にもよく戻った。宿直室によると、若い先生方がよく飲んでいらっしゃった。麻雀台もあった気がする。「またお前か…。」教室まで連れて行ってくれた。
◆それでも、なぜか母は怒らなかった。どうして戻ってきたのかともいわれなかった…。昼は、毎日待っているような感じだった。あれはどういうことだったのだろう。ちなみに成績も怒られたことはなかった。ただ、ただ見逃(みのが)され、許されていたのだ。
◆現代の教育は違う。必罰だ。見逃さないし許さない。しかし、キャッチボールに例えるとよくわかる。強いボールを投げた子どもに、「この野郎」ともっと強いボールを投げ返したらどうなるか。きっともっと強いボールを投げようとするだろう。それではダメなのだ。やさしいボールがかえってくるまで、やさしいボールで根気よく「つきあうこと」も大事なのだ。
◆つまり、その時期が終われば「反抗心」などどこかに消えて「大人に」なるのだ。そのことを母は知っていたのだろうか。ただ、ただ、好きなようにさせておく余裕が、この頃の母にはあったのだろうと思う。
◆それよりも、もっとずっと小さかった頃、「通信簿配付」の日の朝私は宣言した「今日は頑張る。ぜんぶ「5」になるようがんばると」。運動会で一位になると宣言するように。母は笑って「通信簿は前の日までに出来ているのよ」といった。「えっー」と思ったことを覚えている。そう、「馬鹿な子ほどかわいい」のだ。
◆しかし、忘れもしない大学生の頃、この母親は激怒し卒倒して、私への仕送りを止めたことがある…。
◆いつもニコニコ怒りません。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」は、自分りも明るく・仲良く・イキイキと導くおまじない。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」。
↓
lit.link/oyama1049
◆平成になる頃までの小学校は、忘れものには厳しかった。もし忘れたら、「隣のクラスに借りに行く」か「家に戻る」という暗黙のルールがあった。小学校に勤めた頃、忘れ物をした子どもが3㎞(帰りはじいちゃんの軽トラ)も歩いて戻るのを見て驚いた。
◆その頃、5年生の3人組が(忘れ物を取りに行くと学校を出て)バスに乗って街まで行き、ラーメンを食べて、電車で帰ってきたという話があった。「なかなかやるな」と先輩教師。しかし、大した事件になることもなく、すべてが大らかだった。彼らも45歳をとっくに超えている。もう立派な大人になっている。
◆しばらくすると一旦学校に登校したら「帰宅は許さない」という「おふれ」が出た。
◆だいたい私は、中学の頃、ほぼ毎日「忘れ物をした」といって、友だちから自転車を借りてウチに戻っていた時期がある。少々の雨でもだ。時間は母が丁度昼ごはんを食べている頃だ。そして、NHKの朝ドラ(再放送)をみる。「鳩子の海」。斎藤こず恵さんの「日本よ 日本 青い海 まだ守れるぞ どどんがどん」と口ずさみながら中学をエスケープ。
◆藤田美保子さんが印象的だった。大好きだった。夏八木勲さんも若かった。ビデオのない時代だ。母の昼ごはんをつまみ食いして、掃除の時間までに戻る。今でも夢に見るほど自由だった。気持ちよかった。成績はもちろん悪かった。
◆当時中学は500人くらいの生徒数。一人が休み時間いなくなっても誰も気づかない。先生方も自由だった。私は「うかつ」な中学生だったので、夜、宿題プリントを取りに学校にもよく戻った。宿直室によると、若い先生方がよく飲んでいらっしゃった。麻雀台もあった気がする。「またお前か…。」教室まで連れて行ってくれた。
◆それでも、なぜか母は怒らなかった。どうして戻ってきたのかともいわれなかった…。昼は、毎日待っているような感じだった。あれはどういうことだったのだろう。ちなみに成績も怒られたことはなかった。ただ、ただ見逃(みのが)され、許されていたのだ。
◆現代の教育は違う。必罰だ。見逃さないし許さない。しかし、キャッチボールに例えるとよくわかる。強いボールを投げた子どもに、「この野郎」ともっと強いボールを投げ返したらどうなるか。きっともっと強いボールを投げようとするだろう。それではダメなのだ。やさしいボールがかえってくるまで、やさしいボールで根気よく「つきあうこと」も大事なのだ。
◆つまり、その時期が終われば「反抗心」などどこかに消えて「大人に」なるのだ。そのことを母は知っていたのだろうか。ただ、ただ、好きなようにさせておく余裕が、この頃の母にはあったのだろうと思う。
◆それよりも、もっとずっと小さかった頃、「通信簿配付」の日の朝私は宣言した「今日は頑張る。ぜんぶ「5」になるようがんばると」。運動会で一位になると宣言するように。母は笑って「通信簿は前の日までに出来ているのよ」といった。「えっー」と思ったことを覚えている。そう、「馬鹿な子ほどかわいい」のだ。
◆しかし、忘れもしない大学生の頃、この母親は激怒し卒倒して、私への仕送りを止めたことがある…。
◆いつもニコニコ怒りません。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」は、自分りも明るく・仲良く・イキイキと導くおまじない。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」。
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