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耕田院の日常(169回目)山形県羽前大山駅

生きた証 塔和子さん

投稿日:2023年01月20日(金) 04時48分53秒
◆「NHK人✖️物✖️録 アーカーイブス」NHK映像ファイル「あの人に会いたい」を時々のぞく。キャッチはなつかしい「あの人」の、珠玉の言葉がよみがえるとある。そこには、今まで存じ上げなかった方やその言葉との新しい出会いがある。

◆そこで、詩人・塔和子さんを見つけた。恥ずかしながら存じ上げなかった。

かかわらなければ
この愛しさを知るすべはなかった
この親しさは湧かなかった(略)
人はかかわることからさまざまな思いを知る(略)
ああ 何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
私の胸の泉に 枯葉いちまいも 落としてはくれない

~「胸の泉に」から~

◆さて、なぜ「かかわらなければ」という言葉が生まれたのであろう。この詩の作者塔和子さんの略歴である。

1929年、愛媛県の明浜町生まれ。8人きょうだいの3番目の次女として生まれる。
1941年、国民学校の6年生の春ハンセン病を発病
1943年、13歳で国立療養所大島青松園に入所
1951年9月、同園の赤沢正美と結婚 (夫君に詩作を指導してもらう)
1952年頃に、特効薬プロミンによりハンセン病が完治。(22歳)
◉国の政策により、病気が治った後も隔離され続けた元患者80人のうちの1人だった塔さん。世間の目を恐れ本名が明らかにされたのも亡くなってからだった。亡くなるまで70年にも及ぶ隔離生活

1957年頃詩作を始める。(昭和32年)
1961年初詩集『はだか木』を出版
1964年、園内のキリスト教会で洗礼を受ける。
1989年、毎日放送テレビドキュメント「不明の花-塔和子の世界」放映。
1999年、詩集『記憶の川で』で第29回高見順賞受賞。
2000年11月、夫・赤沢正美死去。
2013年8月28日午後3時10分、急性呼吸不全で死去。満83歳。

◉大島青松園に入所した期間は70年3カ月。

◆遺骨は大島青松園の納骨堂に納められた。そして、2014年3月17日、故郷の西予市明浜町田之浜の墓地に、本名・井土ヤツ子の名前で分骨されたという。なんということだろう…

◆塔和子さんは、「ハンセン病」が容赦ない偏見に晒された頃を生き、力強い言葉で「生きることの本質に迫った」詩人である。しかも、生涯本名を名乗ることもできなかったという。その逆境の中で、紡いだ詩集は19冊。1000編。作者自身の「生きた証」そのものだ。

私は砂漠にいたから
一滴の水の尊さがわかる
海の中を漂流していたから
つかんだ一片の木ぎれの重さがわかる

◆無知からくる人権の侵害。恥ずべき歴史を忘れてはならない。そして、逆境の中生き抜き、だからこそ生まれた宝珠のような言葉を、今、「平和」という言葉とともに噛み締めたい。我々への励ましの言葉として。

※ らい予防法・・1953年に定められ、1996年に廃止された。

※ エッセイスト・作家の安宅温さんが著した本がおすすめ。
『命いとおし』-隔離の島から届く魂の詩-  

◆いつもニコニコ怒りません。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」は、自分もまわりも明るく・仲良く・イキイキと導くおまじない。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」。
耕田院(山形県)

すてき

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