耕田院の日常(161回目)|山形県羽前大山駅
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
投稿日:2023年01月12日(木)
◆愚直に修行するお姿、たとえ周囲には愚かに見えても、その生き方は「大愚=大賢=大悟」なのだ。良寛さまである。その生き方について、かの北大路魯山人が、「良寛様の書は質からいっても、実に稀にみるすばらしい良質の美書であって、珍しくも、正しい噓のない姿である」と、そして「書には必ず人格が反映しているもの」と評している。
◆その良寛さまに「心水何澄澄」【心水何ぞ 澄々(ちょうちょう)たる】という詩文がある。
何を私たちに教えてくださっているのだろうか。
心水何澄澄 良寛
心という水は なんと澄みきっていることか
その水面を眺め渡しても 涯(はて)は見えぬ
しかし そこにちらりと一念が起こったとたん
あらゆる像が 眼前に畳なわる(たたなわる)
人は それに執(とら)われて 有(う)の見を生じ
それに 乗っかって 永久に本心に戻らない
嘆かわしや 迷妄(めいもう)の人は
ついに 十纏(てん)にまといつかれる ( 禅入門 良寛 入矢 義高 (講談社) より)
◆本来、心の水面(みなも)は穏やかで、澄み渡っている。そして、どこまでも深く、透明である。
◆しかし、一旦心を波立たせてしまうと、次々に波が立つ。寄せる波、返す波がぶつかって、更に大きな波が立つ。怒りが怒りを運ぶようなものでもあり、不安が不安を増幅するようなものである。この波立つ姿を「十纏(てん)」という。
◆心は一旦波立ってしまうと、もとの穏やかな水面には戻すことは難しい。皆を困らせる十纏(てん)にまといつかれた迷妄(めいもう)の人となってしまうのだ。つまり、道理・真理の通らない人になってしまうのだ。
◆十纏とは、次に示す10個の心のことである。根っこにあるは三毒「貪瞋痴」である。
無慚(むざん)、他人に恥じる心がないこと。
嫉(しつ)、他人の幸せを喜ばず、嫉妬する心。
慳(けん)、ケチで布施をしない心。
悪作(あくさ)、後悔。
睡眠(すいみん)をあいまいにして視野を狭くする心。
掉挙(じょうこ)、気分が浮ついて安静にならない心。
惛沈(こんじん)、気分が陰鬱で、善行に耐えられない心。
忿(ふんと)、思い通りにならない人や物を壊そうとする短気な心。
覆(ふくと)、自分の失敗を隠す心。
貪(むさぼり)から派生しているのが無慚、慳
瞋(嫌いなものを憎み嫌悪)から派生しているのが嫉、忿
愚(迷い惑う)から派生しているのが無愧、睡眠、掉挙
疑(疑い)から派生してるのが悪作
◆「心水何澄澄」の大事な心を「貪瞋痴疑」が、次々と心を波立たせてしい十纏となるのだと良寛さまはお説きになっているである。
◆しかし、人間であるからして、心の中に「貪瞋痴疑」がうまれることは仕様がないことなのだ。だから「貪瞋痴疑」の感情が湧いたならば、「受け止め」「受け流す」のだ。留めてはいけない。「貪瞋痴疑」の感情が「心を通り過ぎる」ようにすることが肝心なのだ。
◆「術」を磨くのだ。例えば「おまじない」のようなものを持っているとよい。「術」とは「ことば」と「間である。」「間」とは「深呼吸」でおり、「おまじない」は呪文である。
◆たとえば、私の心を通り過ぎさせる術・おまじないは「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」(西有禅師)「羯諦(ぎゃてい)」。 (曽祖母のまじない・https://kodein-blog.com/「怒り」をすがすがしく「受け流してやる」方法/)。また、ご自分の好きな言葉での「おまじない」を作ってもよしだと思う。ちなみに板橋興宗禅師様は「ありがとさん」。「ありがとさん」と三度お唱えになるそうだ。
※ 以下「心水何澄澄」の原文と書き下し文である。
心水何澄澄 (心水何ぞ澄々たる)
望之不見底 (之を望めども底を見ず)
一念纔瞥起 (一念纔(わず)かに瞥起(べっき)すれば)
万像堆其前 (万像其の前に堆し(うずたかし))
執之以為有 (之に執して以て有と為し)
乗之不永還 (之に乗じて永く還らず(かえらず))
苦哉狂酔子 (苦しい哉 狂酔子 (きょうすいし))
終被繞十纏 (終に十纏(じってん)に繞(まと)はる)
◆その良寛さまに「心水何澄澄」【心水何ぞ 澄々(ちょうちょう)たる】という詩文がある。
何を私たちに教えてくださっているのだろうか。
心水何澄澄 良寛
心という水は なんと澄みきっていることか
その水面を眺め渡しても 涯(はて)は見えぬ
しかし そこにちらりと一念が起こったとたん
あらゆる像が 眼前に畳なわる(たたなわる)
人は それに執(とら)われて 有(う)の見を生じ
それに 乗っかって 永久に本心に戻らない
嘆かわしや 迷妄(めいもう)の人は
ついに 十纏(てん)にまといつかれる ( 禅入門 良寛 入矢 義高 (講談社) より)
◆本来、心の水面(みなも)は穏やかで、澄み渡っている。そして、どこまでも深く、透明である。
◆しかし、一旦心を波立たせてしまうと、次々に波が立つ。寄せる波、返す波がぶつかって、更に大きな波が立つ。怒りが怒りを運ぶようなものでもあり、不安が不安を増幅するようなものである。この波立つ姿を「十纏(てん)」という。
◆心は一旦波立ってしまうと、もとの穏やかな水面には戻すことは難しい。皆を困らせる十纏(てん)にまといつかれた迷妄(めいもう)の人となってしまうのだ。つまり、道理・真理の通らない人になってしまうのだ。
◆十纏とは、次に示す10個の心のことである。根っこにあるは三毒「貪瞋痴」である。
無慚(むざん)、他人に恥じる心がないこと。
嫉(しつ)、他人の幸せを喜ばず、嫉妬する心。
慳(けん)、ケチで布施をしない心。
悪作(あくさ)、後悔。
睡眠(すいみん)をあいまいにして視野を狭くする心。
掉挙(じょうこ)、気分が浮ついて安静にならない心。
惛沈(こんじん)、気分が陰鬱で、善行に耐えられない心。
忿(ふんと)、思い通りにならない人や物を壊そうとする短気な心。
覆(ふくと)、自分の失敗を隠す心。
貪(むさぼり)から派生しているのが無慚、慳
瞋(嫌いなものを憎み嫌悪)から派生しているのが嫉、忿
愚(迷い惑う)から派生しているのが無愧、睡眠、掉挙
疑(疑い)から派生してるのが悪作
◆「心水何澄澄」の大事な心を「貪瞋痴疑」が、次々と心を波立たせてしい十纏となるのだと良寛さまはお説きになっているである。
◆しかし、人間であるからして、心の中に「貪瞋痴疑」がうまれることは仕様がないことなのだ。だから「貪瞋痴疑」の感情が湧いたならば、「受け止め」「受け流す」のだ。留めてはいけない。「貪瞋痴疑」の感情が「心を通り過ぎる」ようにすることが肝心なのだ。
◆「術」を磨くのだ。例えば「おまじない」のようなものを持っているとよい。「術」とは「ことば」と「間である。」「間」とは「深呼吸」でおり、「おまじない」は呪文である。
◆たとえば、私の心を通り過ぎさせる術・おまじないは「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」(西有禅師)「羯諦(ぎゃてい)」。 (曽祖母のまじない・https://kodein-blog.com/「怒り」をすがすがしく「受け流してやる」方法/)。また、ご自分の好きな言葉での「おまじない」を作ってもよしだと思う。ちなみに板橋興宗禅師様は「ありがとさん」。「ありがとさん」と三度お唱えになるそうだ。
※ 以下「心水何澄澄」の原文と書き下し文である。
心水何澄澄 (心水何ぞ澄々たる)
望之不見底 (之を望めども底を見ず)
一念纔瞥起 (一念纔(わず)かに瞥起(べっき)すれば)
万像堆其前 (万像其の前に堆し(うずたかし))
執之以為有 (之に執して以て有と為し)
乗之不永還 (之に乗じて永く還らず(かえらず))
苦哉狂酔子 (苦しい哉 狂酔子 (きょうすいし))
終被繞十纏 (終に十纏(じってん)に繞(まと)はる)
すてき
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、情報を発信しようという気持ちになりますし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。