耕田院の日常(160回目)|山形県羽前大山駅
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
投稿日:2023年01月11日(水)
◆瀬戸内寂聴さんが「笑顔」と「健康法」について次のようなメッセージを遺されている。これを読んではっとした。
いつも朗らかに明るくしていれば、いいことが寄ってくるんですよ。笑うことは何よりの健康法です。怒ったり、人を恨んでいると嫌な顔になります。鏡を見て、自分が嫌な顔をしていたら、鏡にニッコリほほえみかけましょう。心が「ほどけます」よ。
◆はっとしたのは寂聴さんの「心がほどけますよ」の一言に、である。
◆以前、「仏とは心がほどける」ことだと教わったことがあったからだ。鏡ににっこり微笑むと心がほどけて、「仏になれる」とはどういうことであろうか。
◆病気や心の不調の原因は何かと聞くと「ストレス」だという答えが返ってくるようになってから久しい。「ストレス」の原因は何かと問えば、それは「人間関係」に関わることが大部分のようだ。
◆なぜ、「人間関係」がストレスになるのだろう。それは、私たちは、ありがたい「縁」の中でのみ生きているわけではないからだ。会いたくない人に会い、一緒に仕事をしなければならないこともあるのだ。つまり、人として生きるには、「人間関係」を無視して生きていくことはできないのだ。
◆何らかの原因で心か弱っている時は、特にこの「人間関係」に振り回され、ストレスにさらされてしまう。つまり、人間関係が「からまって」しまい、そこから自由になれないのだ。内側が弱っている時に、外的な要因である「外側の人間関係」に一番左右されてしまうのだ。
そこに生まれるのは、寂聴さんのいう「自分の嫌な顔」である。
◆しかし、考えればわかるのだが、私たちにとって大切なのは「内側」である。外側の障害など何も意味がないことなのだ。そもそも、この世は移り変わるものである。変化しないものはなく、いつまでもこだわらなければならないものなどないのだ。これがこの世の道理まのだ。
◆だから、寂聴さんは、自分を自分の笑顔で励ますことで、ストレスを無力化し、心をほぐすことを勧めているのだ。ありがたいのは、寂聴さんだって、そのように鏡をご覧になって、「怒りを遠ざけて」自らを叱咤激励していたであろうことだ。それが、寂聴さんの鏡ににっこり微笑む意味なのだと思う。
◆そしてまた、有難くない出会いについても、とりあえずやり過ごしてやればよいと寂聴さんは教えているのである。
◆「こんがらがった」人間関係は、所詮、「私というもの外側」にあるものだということに気がつけば、人間関係に縛られた心が「ほどける」ていく。「誰かに褒められたい」「評価されたい」「認めてもらいたい」「もっとやらねば」という気持ちは、私たちの外側の世界のことなのだ。大事なことは、そんなことからさっさと離れて、自分の内面へのアプローチを始めることなのだ。
◆しかし、外側にあるものは全て受け入れないということではない。上手にコミュニケーションをとりながらお互いに分かり合い、理解しあうということも大切なことである。つまり、「縁を繋いでいく」行為である。だが、これもまた難しい。
◆相手の心に近づき、「縁を繋いでいく」には、「相手の心を汲む」ことに心を砕かなければならない。相手の立場になって「心を汲む」ことを繰り返すと、その先に「わかりあう」という双方向の深い理解が生まれるはずだ。
◆双方向の深い理解とは、互いの「心がほどけ」、お互いの内面に潤いが生まれることであると思う。
いつも朗らかに明るくしていれば、いいことが寄ってくるんですよ。笑うことは何よりの健康法です。怒ったり、人を恨んでいると嫌な顔になります。鏡を見て、自分が嫌な顔をしていたら、鏡にニッコリほほえみかけましょう。心が「ほどけます」よ。
◆はっとしたのは寂聴さんの「心がほどけますよ」の一言に、である。
◆以前、「仏とは心がほどける」ことだと教わったことがあったからだ。鏡ににっこり微笑むと心がほどけて、「仏になれる」とはどういうことであろうか。
◆病気や心の不調の原因は何かと聞くと「ストレス」だという答えが返ってくるようになってから久しい。「ストレス」の原因は何かと問えば、それは「人間関係」に関わることが大部分のようだ。
◆なぜ、「人間関係」がストレスになるのだろう。それは、私たちは、ありがたい「縁」の中でのみ生きているわけではないからだ。会いたくない人に会い、一緒に仕事をしなければならないこともあるのだ。つまり、人として生きるには、「人間関係」を無視して生きていくことはできないのだ。
◆何らかの原因で心か弱っている時は、特にこの「人間関係」に振り回され、ストレスにさらされてしまう。つまり、人間関係が「からまって」しまい、そこから自由になれないのだ。内側が弱っている時に、外的な要因である「外側の人間関係」に一番左右されてしまうのだ。
そこに生まれるのは、寂聴さんのいう「自分の嫌な顔」である。
◆しかし、考えればわかるのだが、私たちにとって大切なのは「内側」である。外側の障害など何も意味がないことなのだ。そもそも、この世は移り変わるものである。変化しないものはなく、いつまでもこだわらなければならないものなどないのだ。これがこの世の道理まのだ。
◆だから、寂聴さんは、自分を自分の笑顔で励ますことで、ストレスを無力化し、心をほぐすことを勧めているのだ。ありがたいのは、寂聴さんだって、そのように鏡をご覧になって、「怒りを遠ざけて」自らを叱咤激励していたであろうことだ。それが、寂聴さんの鏡ににっこり微笑む意味なのだと思う。
◆そしてまた、有難くない出会いについても、とりあえずやり過ごしてやればよいと寂聴さんは教えているのである。
◆「こんがらがった」人間関係は、所詮、「私というもの外側」にあるものだということに気がつけば、人間関係に縛られた心が「ほどける」ていく。「誰かに褒められたい」「評価されたい」「認めてもらいたい」「もっとやらねば」という気持ちは、私たちの外側の世界のことなのだ。大事なことは、そんなことからさっさと離れて、自分の内面へのアプローチを始めることなのだ。
◆しかし、外側にあるものは全て受け入れないということではない。上手にコミュニケーションをとりながらお互いに分かり合い、理解しあうということも大切なことである。つまり、「縁を繋いでいく」行為である。だが、これもまた難しい。
◆相手の心に近づき、「縁を繋いでいく」には、「相手の心を汲む」ことに心を砕かなければならない。相手の立場になって「心を汲む」ことを繰り返すと、その先に「わかりあう」という双方向の深い理解が生まれるはずだ。
◆双方向の深い理解とは、互いの「心がほどけ」、お互いの内面に潤いが生まれることであると思う。
すてき
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