耕田院の日常(152回目)|山形県羽前大山駅
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
投稿日:2023年01月02日(月)
◆何か新年にあたりよい言葉はないかと思って探していたら一つのコラムが目に止まった。
平成14年1月3日の天声人語だ。「狂」「癡」「愚」を漢字学の大家である白川静先生が、「ひいき」にしている漢字として選んだという文章が紹介されていた。
◆「そして、天声人語の読者に、新年にあたり、新たに心に刻む漢字として、書き初めにどうだろうといっている。その理由は、「狂」「癡」「愚」が人間の至境であるからだという。至境とは、「芸道の至境をきわめる」のように使い、到達することのできる最高の境地のことをいう。
◆どちらかといえば、取り扱い注意の3文字だ。狂人の「狂」、癡人の「癡(痴)」、愚人の「愚」。これらが人間の最高の境地とは、新年早々いったいどういうことであろうか。
◆まず「愚」については、江戸時代の禅僧良寛さんが「大愚良寛」と呼ばれており、それはだだの愚者の意味ではないことはよく理解できる。周囲には愚かに見えても、愚かさを超え、修行する姿には、「大愚」。大きな「お悟り」があるという事だ。
◆「大賢は愚なるがごとく、甚だ高次の徳性のあるもの」という。つまり「大賢」が「愚」なのである。こう考えれば「愚」が「至境」であるとよく理解できよう。「大愚」はとても凡夫の及ぶところではないのだ。
◆残りの二つの漢字の意味するところを白川静先生は次のように説明していた。
◆まず、「狂」は、狂うことではないという。「狂」は好むところに溺れること、憑き物がおちないことをいうそうだ。例えば「風狂の徒」といえば、風雅に徹する人という意味であり、世間の埒外(らちがい)に逸出しようとする志、枠さえも越えるという意味だ。
◆例えば俳諧の世界で「風狂の徒」といえば、かの松尾芭蕉であり、尾崎放哉である。松尾芭蕉は俳句を確立した。それでは、尾崎放哉が「風狂の徒」とはどういうことなのだろう。ちなみに尾崎放哉の代表作といえば「咳をしても一人」である。
◆尾崎放哉が究めたのは俳諧の道。その俳諧において、五・七・五の枠を壊した自由律俳句の代表的な俳人なのである。芭蕉の確立した定型の五・七・五。それをより純粋に追究し、徹底的に削ぎおとし、「自由律俳句」に昇華させたのである。枠を壊したのである。
◆晩年、尾崎放哉は小豆島の庵寺で極貧のなか俳句を作る人生を過ごしたという。その気ままな暮らしぶりから「今一休(いっきゅう)」とも呼ばれたそうだ。この尾崎放哉にとって、松尾芭蕉に同じ「風狂の徒」である呼ばれる事は最大の賛辞であろう。
◆また、「癡」は「痴」の旧字であり、うつつをぬかす意であるが「狂」ほど激しくない、控えめな「狂」とある。それなのに、この字は「痴漢」という忌まわしい語にもっぱら使われていると白川静先生は嘆く。昔は、「書痴」のように自らを誇る言葉でもあったそうだ。「書痴」とは、読書ばかりしていて、世の中のことにうとい人という意味だ。つまり、勉強家をへり下った言葉なのだ。
◆この3つの漢字は、どれも「人間の至境」にふさわしい字であることはわかった。しかしながら、この天声人語は10年前、白川静先生の文章はそれよりも10年前だ。つまり、二十年経っても「狂」も「痴」も「愚」もその名誉を回復していない。一度ついたレッテルはなかなか剥がれないということか。
※写真の輪橋(りんきょう)山はお寺の山号。輪橋はアーチ橋という意味。そこから思い浮かぶのは「虹」。空にかかるアーチの橋という意味だ。此の岸から彼の岸、この世からあの世にかかる虹の橋という意味の山号だ。そこから住職がつぶやいている「徒然話」だ。
平成14年1月3日の天声人語だ。「狂」「癡」「愚」を漢字学の大家である白川静先生が、「ひいき」にしている漢字として選んだという文章が紹介されていた。
◆「そして、天声人語の読者に、新年にあたり、新たに心に刻む漢字として、書き初めにどうだろうといっている。その理由は、「狂」「癡」「愚」が人間の至境であるからだという。至境とは、「芸道の至境をきわめる」のように使い、到達することのできる最高の境地のことをいう。
◆どちらかといえば、取り扱い注意の3文字だ。狂人の「狂」、癡人の「癡(痴)」、愚人の「愚」。これらが人間の最高の境地とは、新年早々いったいどういうことであろうか。
◆まず「愚」については、江戸時代の禅僧良寛さんが「大愚良寛」と呼ばれており、それはだだの愚者の意味ではないことはよく理解できる。周囲には愚かに見えても、愚かさを超え、修行する姿には、「大愚」。大きな「お悟り」があるという事だ。
◆「大賢は愚なるがごとく、甚だ高次の徳性のあるもの」という。つまり「大賢」が「愚」なのである。こう考えれば「愚」が「至境」であるとよく理解できよう。「大愚」はとても凡夫の及ぶところではないのだ。
◆残りの二つの漢字の意味するところを白川静先生は次のように説明していた。
◆まず、「狂」は、狂うことではないという。「狂」は好むところに溺れること、憑き物がおちないことをいうそうだ。例えば「風狂の徒」といえば、風雅に徹する人という意味であり、世間の埒外(らちがい)に逸出しようとする志、枠さえも越えるという意味だ。
◆例えば俳諧の世界で「風狂の徒」といえば、かの松尾芭蕉であり、尾崎放哉である。松尾芭蕉は俳句を確立した。それでは、尾崎放哉が「風狂の徒」とはどういうことなのだろう。ちなみに尾崎放哉の代表作といえば「咳をしても一人」である。
◆尾崎放哉が究めたのは俳諧の道。その俳諧において、五・七・五の枠を壊した自由律俳句の代表的な俳人なのである。芭蕉の確立した定型の五・七・五。それをより純粋に追究し、徹底的に削ぎおとし、「自由律俳句」に昇華させたのである。枠を壊したのである。
◆晩年、尾崎放哉は小豆島の庵寺で極貧のなか俳句を作る人生を過ごしたという。その気ままな暮らしぶりから「今一休(いっきゅう)」とも呼ばれたそうだ。この尾崎放哉にとって、松尾芭蕉に同じ「風狂の徒」である呼ばれる事は最大の賛辞であろう。
◆また、「癡」は「痴」の旧字であり、うつつをぬかす意であるが「狂」ほど激しくない、控えめな「狂」とある。それなのに、この字は「痴漢」という忌まわしい語にもっぱら使われていると白川静先生は嘆く。昔は、「書痴」のように自らを誇る言葉でもあったそうだ。「書痴」とは、読書ばかりしていて、世の中のことにうとい人という意味だ。つまり、勉強家をへり下った言葉なのだ。
◆この3つの漢字は、どれも「人間の至境」にふさわしい字であることはわかった。しかしながら、この天声人語は10年前、白川静先生の文章はそれよりも10年前だ。つまり、二十年経っても「狂」も「痴」も「愚」もその名誉を回復していない。一度ついたレッテルはなかなか剥がれないということか。
※写真の輪橋(りんきょう)山はお寺の山号。輪橋はアーチ橋という意味。そこから思い浮かぶのは「虹」。空にかかるアーチの橋という意味だ。此の岸から彼の岸、この世からあの世にかかる虹の橋という意味の山号だ。そこから住職がつぶやいている「徒然話」だ。
すてき
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、情報を発信しようという気持ちになりますし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。