耕田院の日常(149回目)|山形県羽前大山駅
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
投稿日:2022年12月30日(金)
◆「立派」とは、すぐれて堂々としていること。完全と言っていいほど見事な様子のことをいう。しかしながら、世間的に偉いひとが必ずしも「立派」なわけではない。立派な服を着てはいても…。
◆新しいイギリスの国王は、国王らしい、品のいい、おしゃれで、正統派のお召し物を着てはいるのだが、実は、あちらこちらに「繕った」あとがあるそうだ。つまり、継ぎが当てられているのである。テレビで紹介されていた映像では、確かツイードのダブルが、しっかりと補修されていたのだ。イギリスの国王が、である。
◆ものを大事にする人なのだそうだ。靴も上着も何十年も大事に使うそうだ。イギリスの国王が、である。
◆そしてまた、この新国王は熱心な環境活動家でもあるそうだ。
◆私は、この新国王は「立派な人」であると思う。報道を見てそのように思った。(ダイアナ妃のことは別にして…。)
◆かつて我が国にも同じような、華美を嫌う気概があった。
ボロは着てても 心の錦
どんな花よりきれいだぜ
◆華美を嫌う。日本人の美意識の一つだった。イギリスの国王の「立派さ」にも通じる。この「ボロは着てても心の錦」のこころを思い出させてくれた映画がある。
◆「雨あがる」という映画だ。91分の作品である。大作ではない。巨匠黒澤明監督の遺作となった脚本を、長く助監督をされていた小泉堯史さんが監督。製作は、黒澤組といわれたグループが中心となり、2000年に公開された時代劇の佳作である。
◆故黒澤明監督の覚え書きには、「見終わって、晴れ晴れとした気持ちになる様な作品にすること」とあったという。原作は、山本周五郎が1951年に発表した短編小説。主人公は滅法腕の立つ浪人三沢伊兵衛(寺尾聰さん)と出来過ぎた妻のタヨ(宮崎美子さん)。この浪人三沢伊兵衛も妻のタヨも「心の錦」が立派なのである。話も「仕官話」、時代劇の王道である。
◆ことの発端は大雨で「川留」になり、旅籠に長逗留することからだ。「川留」の旅籠の客たちは険悪な雰囲気になる。そこで、人のよい伊兵衛は、「賭け試合」をして金子(きんす)を稼ぎ、旅籠の客達に酒肴を振う。しかし、結果的にはこの賭け試合が三沢伊兵衛の仕官の口を潰してしまうことになるのだが…。
◆仕官話は、伊兵衛が山道で侍同士の喧嘩を仲裁することから。とにかく腕前が凄まじい。その一部始終を見ていた殿さまに気に入られ、剣術指南番に乞われるのだ。
◆腕前を披露する御前試合では、次々に相手を破っていく。とんとん拍子である。痛快である。しかし、しまいには殿さま相手にまさかの大失態。しかも、賭け試合をしたことが仇となり、仕官話は破断になる。夫婦はまた旅にでるところで終わる。
◆三沢伊兵衛は、人柄もすばらしく、武芸の達人なのだが、なぜか仕官できない。浪浪の身であることを、妻に対して面目ないと思っている。妻タヨは、静かに見守っている。今度こそはうまくいきかけていたのに…。
◆それでも、最後のセリフがいい。仕官を故わりにきた城方の家来に妻のタヨがいう。
「あなた達の様なでくの棒にはお分かりいただけないでしょうが…」という名台詞だ。
◆そして、セリフはこのように続く。
これだけ立派な腕を持ちながら、花を咲かすことができない。なんというめぐり合わせでしょう。でも、私(わたくし)は、このままで、ようございます。人を押しのけ、人の席を奪わず、機会があれば貧しいが、真実の方々に喜びを与えられる方ですから。
◆子どもが見てもすぐわかる。立派なのは偉い殿さまでもなく、家老でもない。人にやさしく、まっすぐな三沢伊兵衛とその妻だと。「ボロは着てても心の錦」なのだ。
◆そうして、晴れやかな表情で旅立つ二人がいる。
◆もう一つ。三沢伊兵衛の殺陣が素晴らしい。そして、「今の私は、自分に腹が立っているんです。何をするか分かりませんよ」このセリフも印象的だ。
◆新しいイギリスの国王は、国王らしい、品のいい、おしゃれで、正統派のお召し物を着てはいるのだが、実は、あちらこちらに「繕った」あとがあるそうだ。つまり、継ぎが当てられているのである。テレビで紹介されていた映像では、確かツイードのダブルが、しっかりと補修されていたのだ。イギリスの国王が、である。
◆ものを大事にする人なのだそうだ。靴も上着も何十年も大事に使うそうだ。イギリスの国王が、である。
◆そしてまた、この新国王は熱心な環境活動家でもあるそうだ。
◆私は、この新国王は「立派な人」であると思う。報道を見てそのように思った。(ダイアナ妃のことは別にして…。)
◆かつて我が国にも同じような、華美を嫌う気概があった。
ボロは着てても 心の錦
どんな花よりきれいだぜ
◆華美を嫌う。日本人の美意識の一つだった。イギリスの国王の「立派さ」にも通じる。この「ボロは着てても心の錦」のこころを思い出させてくれた映画がある。
◆「雨あがる」という映画だ。91分の作品である。大作ではない。巨匠黒澤明監督の遺作となった脚本を、長く助監督をされていた小泉堯史さんが監督。製作は、黒澤組といわれたグループが中心となり、2000年に公開された時代劇の佳作である。
◆故黒澤明監督の覚え書きには、「見終わって、晴れ晴れとした気持ちになる様な作品にすること」とあったという。原作は、山本周五郎が1951年に発表した短編小説。主人公は滅法腕の立つ浪人三沢伊兵衛(寺尾聰さん)と出来過ぎた妻のタヨ(宮崎美子さん)。この浪人三沢伊兵衛も妻のタヨも「心の錦」が立派なのである。話も「仕官話」、時代劇の王道である。
◆ことの発端は大雨で「川留」になり、旅籠に長逗留することからだ。「川留」の旅籠の客たちは険悪な雰囲気になる。そこで、人のよい伊兵衛は、「賭け試合」をして金子(きんす)を稼ぎ、旅籠の客達に酒肴を振う。しかし、結果的にはこの賭け試合が三沢伊兵衛の仕官の口を潰してしまうことになるのだが…。
◆仕官話は、伊兵衛が山道で侍同士の喧嘩を仲裁することから。とにかく腕前が凄まじい。その一部始終を見ていた殿さまに気に入られ、剣術指南番に乞われるのだ。
◆腕前を披露する御前試合では、次々に相手を破っていく。とんとん拍子である。痛快である。しかし、しまいには殿さま相手にまさかの大失態。しかも、賭け試合をしたことが仇となり、仕官話は破断になる。夫婦はまた旅にでるところで終わる。
◆三沢伊兵衛は、人柄もすばらしく、武芸の達人なのだが、なぜか仕官できない。浪浪の身であることを、妻に対して面目ないと思っている。妻タヨは、静かに見守っている。今度こそはうまくいきかけていたのに…。
◆それでも、最後のセリフがいい。仕官を故わりにきた城方の家来に妻のタヨがいう。
「あなた達の様なでくの棒にはお分かりいただけないでしょうが…」という名台詞だ。
◆そして、セリフはこのように続く。
これだけ立派な腕を持ちながら、花を咲かすことができない。なんというめぐり合わせでしょう。でも、私(わたくし)は、このままで、ようございます。人を押しのけ、人の席を奪わず、機会があれば貧しいが、真実の方々に喜びを与えられる方ですから。
◆子どもが見てもすぐわかる。立派なのは偉い殿さまでもなく、家老でもない。人にやさしく、まっすぐな三沢伊兵衛とその妻だと。「ボロは着てても心の錦」なのだ。
◆そうして、晴れやかな表情で旅立つ二人がいる。
◆もう一つ。三沢伊兵衛の殺陣が素晴らしい。そして、「今の私は、自分に腹が立っているんです。何をするか分かりませんよ」このセリフも印象的だ。
すてき
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、情報を発信しようという気持ちになりますし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。