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耕田院の日常(39回目)山形県羽前大山駅

「開経偈」より「百千万劫」 2022/8/31朝4時半の住職の話」から

投稿日:2022年09月09日(金)
無上甚深微妙法 [むじょうじんじん みみょうほう]
百千万劫難遭遇 [ひゃくせんまんごう なんそうぐう]

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇うこと難し。

◆「開経偈(かいきょうげ)」の前半の二句である。お経や説法が始まる前に読む「偈(げ)」だ。意味は、「この上ない深く、素晴らしい釈尊の教え(法)には、永遠とも思えるほどの長い時をかけても出遭うことは困難である。(しかし、出遭えた)」という意味である。

◆さて、「永遠とも思えるほどの長い時」という意味を持つ「百千万劫」の「劫」[こう]とは、いったいどのような時間なのであろうか。

◆この「劫」とは、サンスクリットkalpa[カルパ]の音写語、劫波[こうは]の略語だ。1年、2年とは違い「1劫」とは、「喩え」である。『雑阿含経』このように書かれている。

「天人が方一由旬(四十里)の大石を薄衣で百年に一度払い、石は摩滅しても終わらない長い時間」

「幅・奥行き・高さが四十里の城壁、つまり一辺四十里ほどの立方体の中に、芥子粒[けしつぶ]を一杯に満たし、それを百年に一粒ずつ取り出すとして、それが全部無くなっても、まだ一劫は終わらない」

◆「1劫」とは、途轍もない長い時間の喩えなのである。しかも「百千万劫」であるから、「10億劫」である。その長い時間、私たちは、生まれ変わり死に変わりして、やっと今「仏の真理・法」に出遭えたことを教えている「偈」が「開経偈」の前半の二句なのだ。

◆このことは「修証義」にもある。「開経偈」と同じように、人として生まれることは難しく、かつ、仏法に遇うことも稀であると。だからこそ、はかない露のごとき命を、無常の風に任せたままにしてはならない、無駄にしてはならないと総序第二節だ。

◆また、「劫」使った熟語に、「永劫回帰」という熟語がある。「永劫回帰」とは「生の絶対的肯定」を説くニーチェ哲学の根本をなす概念だ。「永劫」は、無限に続く長い年月。「回帰」は、一周して元のところへかえることをいう。ニーチェ哲学も、前世や来世など考えず、「今」の「一瞬一瞬を充実させること」が大切であると説いているのだ。

◆せっかくの「人生」を無駄にしないとは、「劫」の対極にある「今」「この一瞬」が全てなのだということだ。億劫(おっくう)がってはいけない。「いつやるの?」。「今でしょ」だ。

◆この林修先生のことばには、「開経偈」「修証義」「ニーチェ哲学」が網羅されていることになる。流石だ。
耕田院(山形県)

すてき

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