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幸徳院笹野寺ではいただけません
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幸徳院笹野寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年02月10日(土)
参拝:2023年8月吉日
山形県米沢市笹野に境内を構える、長命山 幸徳院、笹野寺別当寺院、置賜三十三観音霊場を代表する茅葺きの御堂は見所が要所に在り紫陽花寺としても有名です、訪れた際には寺院入り口の蕎麦屋さんは絶品ですので立ち寄って見るのも良いかと思います、置賜三十三観音、出羽百観音巡礼で2023/8月、北國八十八ヶ所霊場巡り9月訪れましたので、どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は長命山、寺号、院号は幸徳院、笹野寺別当寺院、宗派は真言宗、ご本尊は置賜三十三観音霊場、第十九番札所、札所本尊は千手千眼観世音菩薩、北國八十八ヶ所霊場第三十二番札所、札所本尊は千手千眼観世音菩薩、笹野観音堂の創建は不詳ですが大同元年(806)に坂上田村麻呂が蝦夷討伐で当地まで進軍した際、国家鎮護を祈願して観音堂が造営されたのが始まりとされ、弘仁元年(810)に高僧で会津地方の仏教の布教に尽力した徳一上人が寺院として開山したと伝えられています。
当初から神仏混合の形態で別当には長命山幸徳院があたり、祭神として羽黒大権現が勧請され、
笹野観音堂は中世以降、歴代領主から崇敬庇護され、社殿の改修や造営、社領の寄進などが行われ、特に慶長3年(1598)に領主となった上杉家執政の直江兼続は出羽三山(鶴岡市)から羽黒大権現の分霊を勧請し、慶長6年(1601)に上杉家米沢移封に伴い米沢城の最終防衛ラインとして鉄砲60挺を配備しています。
現在の笹野観音の本堂である観音堂は天保4年(1833)の火災で焼失後の天保14年(1843)に12代藩主上杉斉憲により再建されたもので、棟梁は渋谷嘉蔵、彫刻は後藤藤吉・政吉、労働力人工は延べ7,100人、15万石の米沢藩としては一大事業となりました。
建物は入母屋、茅葺で正面に大型な千鳥破風、桁行3間、梁間4間、正面3間軒唐破風向拝付、向拝には龍や鳳凰、獅子、兎、象などの彫刻が施され江戸時代後期の社寺御堂建築の特徴が見られる貴重なもの、笹野観音堂の仁王門は天保11年(1840)の火災で焼失後、明治6年(1873)に南原の常慶院から移築したもので仁王像が安置されています。境内には紫陽花が咲き乱れ別名「あじさい寺」と呼ばれています。歴史
当初から神仏混合の形態で別当には長命山幸徳院があたり、祭神として羽黒大権現が勧請され、
笹野観音堂は中世以降、歴代領主から崇敬庇護され、社殿の改修や造営、社領の寄進などが行われ、特に慶長3年(1598)に領主となった上杉家執政の直江兼続は出羽三山(鶴岡市)から羽黒大権現の分霊を勧請し、慶長6年(1601)に上杉家米沢移封に伴い米沢城の最終防衛ラインとして鉄砲60挺を配備しています。
現在の笹野観音の本堂である観音堂は天保4年(1833)の火災で焼失後の天保14年(1843)に12代藩主上杉斉憲により再建されたもので、棟梁は渋谷嘉蔵、彫刻は後藤藤吉・政吉、労働力人工は延べ7,100人、15万石の米沢藩としては一大事業となりました。
建物は入母屋、茅葺で正面に大型な千鳥破風、桁行3間、梁間4間、正面3間軒唐破風向拝付、向拝には龍や鳳凰、獅子、兎、象などの彫刻が施され江戸時代後期の社寺御堂建築の特徴が見られる貴重なもの、笹野観音堂の仁王門は天保11年(1840)の火災で焼失後、明治6年(1873)に南原の常慶院から移築したもので仁王像が安置されています。境内には紫陽花が咲き乱れ別名「あじさい寺」と呼ばれています。歴史
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