れんげじょういん
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楽しみ方蓮華定院のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年05月29日(金) 20時38分06秒
参拝:2026年5月吉日
高野山には宿坊が全部で52あります。
基本的に宿坊は宿泊者のみの拝観ですので 一般の方の拝観はできません。
ガイドブックでは蓮華定院は宿坊21番のお寺です。
女人堂から不動坂を下りてきた 宿坊が並ぶエリアにあります。
近くには民家やお店もあります。
広い参道が山門まで続いており 参拝者は数名おられました。
お寺のまわりは白塀で囲まれていて 立派なお寺であることは見てすぐに分かりました。
外国からのお客様も多いようで 寺号にアルファベットで読みがふられていました。
真田家の家紋 真田六文銭と結び雁金が書かれていました。
ほほう 真田家にゆかりのあるお寺なんだな。
立派な山門前には こちらも馬桶と杉が用意されていました。
今日は高野山の大切な儀式の日です。
山門をくぐると 正面に本堂があるのですが 本堂前のお庭には白砂利が敷かれ模様が描かれています。
枯山水庭園もきれいですが こういうお庭も素敵です。
本堂には近づけないので こちらで合掌しました。
入ってすぐ右手が宿坊の入口でした。
こちらは宿泊でない方の参拝はできませんでした。
後で気づいたのですが 御朱印をいただけたようです。
失敗したぁ。
ネット情報です。
蓮華定院は鎌倉時代の初め(建久年間) 行勝上人により開創されました。
本尊は阿弥陀如来様です。
高野山は壇上伽藍 奥之院と “高野十谷”といわれる十の谷々から構成されています。
高野十谷”には 谷の名となる寺院を中心に 先師(亡くなった師匠)や檀越(だんおつ 財物を施す信者)を弔う墓や 多くの子院(本寺に付属する小寺)が建てられました。
“高野十谷”の一つ 高野山内の北西部にあったのが “一心院谷”です。
一心院谷は 吉野の笙の窟(しょうのいわや)で厳しい修行を積み 仏教 神道に精通した行勝上人(ぎょうしょうしょうにん)が創建した一心院の寺域そのものを その領域とした谷です。
江戸時代までに一心院は廃絶したため 現在の一心院谷に一心院そのものは残っていません。
現在 壇上伽藍内に移築されている国宝の不動堂(十四世紀初めに再建されたもの)は もと一心院の本堂でした。
運慶作の有名な国宝・八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)は この不動堂に安置されていた仏像群です。
この歴史ある一心院谷内に 行勝上人が多くの子院を開創しています。
その一つ 本尊が阿弥陀如来だった奧之坊(院号は念仏院)が 現在の蓮華定院になりました。
行勝上人は この子院で 一心に阿弥陀如来の名号を唱える修行である念仏三昧(ねんぶつざんまい)の生活を送っていたと言われています。
1521年(大永元年) 高野山は4000ヶ寺が焼失するという災禍に見舞われます。
翌年 当院は信州長野の豪族と宿坊の契約を結ぶことで再建を進めました。
この時に真田家の始祖にあたる海野氏に出会っていたのも不思議なご縁です。
1600年(慶長5年)9月 後に260年続く江戸幕府を開いた徳川家康が率いる東軍と 豊臣家存続を願う西軍が死闘を繰り広げた天下分け目の戦い “関ヶ原の戦”が起きます。
この戦いで西軍は敗れ 西軍についた信濃国 現在の長野県上田の大名 真田昌幸(さなだまさゆき)と 次男の信繁は高野山へ蟄居を命ぜられます。
そのときに真田親子が祖先以来の宿坊として仮寓(かぐう)した寺が蓮華定院です。
当院は真田家の宿坊として信幸(信之)と契約を更新し 以後 真田家の高野山における菩提寺として“真田坊”と呼ばれるようになり 真田家の家紋である“六文銭”と“雁金(かりがね)”を寺紋とすることが許されてきました。
現在の本堂・庫裏・山門は 1860年(江戸時代 万延元年)に真田家の援助により再建されたもので 1888年(明治21年)の大火を免れ 江戸期の大名寺院の格式を今に残しています。
基本的に宿坊は宿泊者のみの拝観ですので 一般の方の拝観はできません。
ガイドブックでは蓮華定院は宿坊21番のお寺です。
女人堂から不動坂を下りてきた 宿坊が並ぶエリアにあります。
近くには民家やお店もあります。
広い参道が山門まで続いており 参拝者は数名おられました。
お寺のまわりは白塀で囲まれていて 立派なお寺であることは見てすぐに分かりました。
外国からのお客様も多いようで 寺号にアルファベットで読みがふられていました。
真田家の家紋 真田六文銭と結び雁金が書かれていました。
ほほう 真田家にゆかりのあるお寺なんだな。
立派な山門前には こちらも馬桶と杉が用意されていました。
今日は高野山の大切な儀式の日です。
山門をくぐると 正面に本堂があるのですが 本堂前のお庭には白砂利が敷かれ模様が描かれています。
枯山水庭園もきれいですが こういうお庭も素敵です。
本堂には近づけないので こちらで合掌しました。
入ってすぐ右手が宿坊の入口でした。
こちらは宿泊でない方の参拝はできませんでした。
後で気づいたのですが 御朱印をいただけたようです。
失敗したぁ。
ネット情報です。
蓮華定院は鎌倉時代の初め(建久年間) 行勝上人により開創されました。
本尊は阿弥陀如来様です。
高野山は壇上伽藍 奥之院と “高野十谷”といわれる十の谷々から構成されています。
高野十谷”には 谷の名となる寺院を中心に 先師(亡くなった師匠)や檀越(だんおつ 財物を施す信者)を弔う墓や 多くの子院(本寺に付属する小寺)が建てられました。
“高野十谷”の一つ 高野山内の北西部にあったのが “一心院谷”です。
一心院谷は 吉野の笙の窟(しょうのいわや)で厳しい修行を積み 仏教 神道に精通した行勝上人(ぎょうしょうしょうにん)が創建した一心院の寺域そのものを その領域とした谷です。
江戸時代までに一心院は廃絶したため 現在の一心院谷に一心院そのものは残っていません。
現在 壇上伽藍内に移築されている国宝の不動堂(十四世紀初めに再建されたもの)は もと一心院の本堂でした。
運慶作の有名な国宝・八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)は この不動堂に安置されていた仏像群です。
この歴史ある一心院谷内に 行勝上人が多くの子院を開創しています。
その一つ 本尊が阿弥陀如来だった奧之坊(院号は念仏院)が 現在の蓮華定院になりました。
行勝上人は この子院で 一心に阿弥陀如来の名号を唱える修行である念仏三昧(ねんぶつざんまい)の生活を送っていたと言われています。
1521年(大永元年) 高野山は4000ヶ寺が焼失するという災禍に見舞われます。
翌年 当院は信州長野の豪族と宿坊の契約を結ぶことで再建を進めました。
この時に真田家の始祖にあたる海野氏に出会っていたのも不思議なご縁です。
1600年(慶長5年)9月 後に260年続く江戸幕府を開いた徳川家康が率いる東軍と 豊臣家存続を願う西軍が死闘を繰り広げた天下分け目の戦い “関ヶ原の戦”が起きます。
この戦いで西軍は敗れ 西軍についた信濃国 現在の長野県上田の大名 真田昌幸(さなだまさゆき)と 次男の信繁は高野山へ蟄居を命ぜられます。
そのときに真田親子が祖先以来の宿坊として仮寓(かぐう)した寺が蓮華定院です。
当院は真田家の宿坊として信幸(信之)と契約を更新し 以後 真田家の高野山における菩提寺として“真田坊”と呼ばれるようになり 真田家の家紋である“六文銭”と“雁金(かりがね)”を寺紋とすることが許されてきました。
現在の本堂・庫裏・山門は 1860年(江戸時代 万延元年)に真田家の援助により再建されたもので 1888年(明治21年)の大火を免れ 江戸期の大名寺院の格式を今に残しています。
すてき
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くるくるきよせん3517投稿
「すてき」 をくださるみなさま、ありがとうございます。 拙い投稿ですのに、本当に感謝しかありません。 2022年の正月に、ふと思い立って古都の寺社巡りを始めました。 由緒書きを読んだり、お話を伺...もっと読む
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