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報恩寺ではいただけません
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報恩寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年01月18日(水)
参拝:2023年1月吉日
🌸白雲山 報恩寺(ほうおんじ)⛩は、もとを要行寺といい、慶長14(1609)年に建てられたとされています。🍁報恩寺の開山、日順上人が寛文12(1672)年に2代藩主光貞公の娘、光姫の供養のために寄付したものです。梵鐘(ぼんしょう)仏教で時を知らせるために打鳴らす鐘があります。
🔹その後寛文6(1666)年に紀州徳川家藩主徳川頼宜公夫人 遥林院の追善供養の為、息子である光貞公が要行寺を報恩寺と改め、一ヶ所本山として寛文9年に小西檀林化主日順上人を招き、寺領250石を寄進し開山導師としました。日順上人は朝廷から権大僧都の位を賜り、参内を許されていました。 🔸以来、当山は紀州徳川家代々の菩提寺として、また和歌山城下唯一の『武士寺』として親しまれてきました。最盛期には末寺6ヶ寺、総面積は約25,000坪を有する紀州随一の日蓮宗寺院として栄えました。 ところが、明治元(1868)年の勤王運動により諸堂が破壊され、時の貫首で当山第17世本如院日偵上人が左幕藩士に惨殺されるという悲しい事件がありました。近代にいたっても、昭和20(1945)年7月の第二次世界大戦時の和歌山大空襲により伽藍は焼失、当山第25世南妙院日環上人によって再興されるも、昭和36年9月には放火により本堂焼失という厄災が続きました。 ☘️今日の本堂は、平成11年に大改修・落慶したものです。しかし、焼失を免れた紀州徳川家御廟所や戦時中の供出を免れた鐘楼は和歌山市指定文化財(史跡・工芸品)として、脈々と受け継がれてきた紀州の歴史を物語っています。
場所⛩️ : 和歌山県和歌山市吹上1丁目6−38
🔹その後寛文6(1666)年に紀州徳川家藩主徳川頼宜公夫人 遥林院の追善供養の為、息子である光貞公が要行寺を報恩寺と改め、一ヶ所本山として寛文9年に小西檀林化主日順上人を招き、寺領250石を寄進し開山導師としました。日順上人は朝廷から権大僧都の位を賜り、参内を許されていました。 🔸以来、当山は紀州徳川家代々の菩提寺として、また和歌山城下唯一の『武士寺』として親しまれてきました。最盛期には末寺6ヶ寺、総面積は約25,000坪を有する紀州随一の日蓮宗寺院として栄えました。 ところが、明治元(1868)年の勤王運動により諸堂が破壊され、時の貫首で当山第17世本如院日偵上人が左幕藩士に惨殺されるという悲しい事件がありました。近代にいたっても、昭和20(1945)年7月の第二次世界大戦時の和歌山大空襲により伽藍は焼失、当山第25世南妙院日環上人によって再興されるも、昭和36年9月には放火により本堂焼失という厄災が続きました。 ☘️今日の本堂は、平成11年に大改修・落慶したものです。しかし、焼失を免れた紀州徳川家御廟所や戦時中の供出を免れた鐘楼は和歌山市指定文化財(史跡・工芸品)として、脈々と受け継がれてきた紀州の歴史を物語っています。
場所⛩️ : 和歌山県和歌山市吹上1丁目6−38
すてき
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