いみずじんじゃ
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【越中國 式内社巡り】(過去の参拝記録)
射水神社(いみず~)は、富山県高岡市古城にある神社。旧式内社で、越中国一之宮(※)。旧国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は瓊瓊杵尊。
社伝によると、創建は太古で二上山を神奈備とし、その山麓に鎮座していた。国史の初見は『続日本紀』の780年条に神階奉授の記載があり、以降『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三大実録』に神階昇叙の記載がある。いずれも高瀬神社(高瀬神)と同時・神階同階で、ともに越中国最高位の神社として朝野の崇敬を受けていた。また、8世紀後半に成立したとされる『万葉集 巻17』に、大伴家持により当社を詠んだ和歌が収録されている。
平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「越中國 射水郡 射水神社 小(または名神大)」に比定されている(「出雲本」では名神大、「九条本」等では小)。のち気多神社との間で一宮争いが生じたが、1163年に成立した『白山之記』では、越中國一之宮であることが記載されている。戦国時代の天正年間に社殿を焼失したが、江戸時代に入って加賀藩の祈願所となり、1610年に加賀藩初代藩主・前田利長により御供田が寄進され、知識米徴収が許された。なお、江戸時代までは神仏習合の形で発展し、当社は「二上山大権現」と呼ばれた。明治時代に入り、神仏分離令により二上神を瓊瓊杵尊として祀り「射水神社」と改称、1871年には国幣中社に列格、1875年に高岡城址の本丸跡に遷座した。
当社は、JR氷見線・城端線・あいの風とやま鉄道・高岡駅の北東1kmの高岡城址の中央部にある。敷地がかなり広いため駐車場を見付けるのに一苦労、社殿を見付けるのにさらに一苦労した。社殿は一之宮らしく大きく立派。ただし社殿周りには境内社などはなく、大きな結婚式場、社務所、授与所があるのみなので、造りは至ってシンプル。
今回は、越中國の式内社、越中國一之宮、旧国幣中社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は平日の朝早めの時間であったが、自分たち以外にも地元民と思われる人々がぱらぱらと参拝に訪れていた。
(※)越中国では、射水神社(射水郡)、気多神社(射水郡)、高瀬神社(礪波郡)、雄山神社(新川郡)の4社(いずれも式内社)が「越中國一之宮」を称している。なお、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地は、現高岡市伏木(気多神社の所在地)とされている。
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この神社は高岡古城公園内に鎮座しています。
由緒書きによると
御祭神:瓊瓊杵尊
創建:創始は太古のことで、年代は詳かではないが、延喜式内名神大社であり、越中文化発祥にゆかり深い大守護神として崇敬せられている。
伝によれば、養老年間、僧行基二上山麓に養老寺を建て、この神を祀り、二上権現と称した。当時の領域は、二上荘六十七カ村、社寺は二上全山に亘り二十二万余坪に達したといわれ、越中全土の各戸より毎年初穂米一升奉納の制があり、盛大を極めた。
その後、承平(931~938)、天正(1573~1592)の二度にわたる兵火により悉く烏有に帰し、一時衰頽したが、慶長年間、前田利家卿社殿再建の上、社領および一山を付し、国内に命じて初穂米奉納の制を復活し、明治維新まで続いた。明治4年、国幣中社に列格し、同8年、高岡城本丸跡の現在地に遷座され、同33年6月、高岡大火の折類焼、同35年復興。
とあります。
この社の現在の御祭神は瓊瓊杵尊ですが、創建時には、現在も二上山麓の二上射水神社に祀られている伊弥頭(いみづ)国造の祖神とされる「二上神」でした。明治8年に高岡城本丸跡の現在地に遷座されたのですが、これは、射水神社が長らく社僧の強い影響下にあり仏教色が強いものであったためとされています。けれど、二上の氏子からは猛反対が起こり、二上山麓の旧社地には分社として二上射水神社が残されました。そして、戦後二上射水神社は独立の神社となり、正式名称を「越中総社射水神社」とし、それに対して現在の射水神社は「越中総鎮守射水神社」と称しています。また、以前は二上の射水神社の摂社であった日吉社(二上山第一峯山頂)、悪王子社(二上山第二峯山頂)、院内社(二上山前面北の峯山頂)、諏訪社(二上山前面西麓)が現在はこの社の摂社となっています。


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