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ほんがんじとやまべついん|浄土真宗本願寺派

本願寺富山別院
富山県 荒町駅

おすすめの投稿

かっこ
かっこ
2021年03月28日(日) 15時06分24秒
463投稿

小さい頃通った幼稚園のお寺。

本願寺富山別院の本殿・本堂
本願寺富山別院の像

せんせいさようなら、みなさんさようなら、ののさまさようなら。と、ご挨拶していたのは何世紀前のことだったろう…😑

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くま
くま
2025年08月22日(金) 15時07分52秒
235投稿

〰️浄土真宗北陸参拝の旅〰️⑧本願寺富山別院さま編

浄土真宗北陸参拝の旅最終、本願寺富山別院さまにやってきました。

北陸地方含めて、北海道は色々なとこれからの入植者によって開拓されていますが、特に富山との繋がりが強いと思います。北陸銀行の支店、富山の薬売り、北海道での開基住職の出身地など。

また参拝旅行に来たいと思っています。

本願寺富山別院の御朱印

本願寺富山別院さまの参拝記念スタンプを事務所で頂きました。

本願寺富山別院の本殿・本堂

本願寺富山別院さま寺名標になります。

本願寺富山別院の本殿・本堂

本願寺富山別院さまの本堂になります。
正面からでなく、右手脇から入り本堂に向かいます。

本願寺富山別院のその他建物
本願寺富山別院のその他建物

本堂右脇から左から入ります。

本願寺富山別院の本殿・本堂

本堂内の様子になります。

本願寺富山別院の本殿・本堂

阿弥陀如来さまになります。

本願寺富山別院の本殿・本堂

親鸞聖人さま絵像になります。

本願寺富山別院の芸術

蓮如上人さま絵像になります。

本願寺富山別院の芸術
本願寺富山別院の芸術
本願寺富山別院の芸術
本願寺富山別院の本殿・本堂

内陣手前の欄間に掲げられた扁額。
「心得開明」(心開明なることを得たり)
『仏説無量寿経』にある、お釈迦さまのお心に感銘した弥勒菩薩が、まことの智慧に触れ、心が開かれていく、今、阿弥陀如来のみ名を聞かせていただける喜びをのべられた言葉です。

昭和42年の富山別院再建に際し、細川家第十二代庄左エ門より寄進を受けた明如上人のご染筆を扁額として、本堂に掲げています。

本願寺富山別院の芸術
本願寺富山別院の芸術
本願寺富山別院の芸術
本願寺富山別院の芸術
本願寺富山別院の芸術
本願寺富山別院の授与品その他
本願寺富山別院の歴史
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歴史

本願寺富山別院の歴史は、寛政年間に結成された「富山大谷講」が「本山会所」を設け、本山への懇志取次ぎなどを行うために部守居を置いたことに始まります。
明治維新となり、新政府は神道国教化政策を進め、廃仏毀釈(廃仏運動)という運動が吹き荒れました。そして、明治3年10月に富山藩から領内の寺院に対して、突如「合寺令(すべての寺院は一宗一ヶ寺にあらため、ただちに合寺すること)」が発布、断行されました。
当時、富山の領内にあった八宗派400ヶ寺余りの寺院が八ヶ寺に集められました。そのような状況の中で越中門徒の聞法の場、信仰の拠り所として「富山大谷講本山会所」に臨時の説教所が設けられました。
その後、越中の門信徒が一致団結して本山へ請願し、明治12年12月に本願寺説教所開設の許可を得ました。更に、明治17年8月には本堂(桁行十六間、深行十六間、約二百七十坪)、庫裏の新築落成を向かえました。その頃、説教所から別院への昇格運動もはじまり、政府に陳情を重ねた結果、正式に別院昇格への許可を受けました。
しかし、この本堂は明治18年5月に市内より出火した火災によって灰墟と帰しました。再建した仮本堂も明治32年の市中火災で再び焼失。しかし、佐藤助九郎氏(佐藤工業株式会社創業者)の篤木
により再び仮本堂が建てられました。明治40年には教化伝道の本拠大正15年再建の旧本堂として富山教区教務所が置かれました。その後、大正8年11月に別
院再建のご消息をいただき、再建記念事業として徳風会館、徳風幼稚園が建設され、大正15年に本堂 (間口十七間、奥行二十一間、総造、約四百坪)の再建にいたりました。しかし、この本堂も昭和14年5月に焼失してしまいます。
その後、再々度の仮本堂を建設、本堂再建のための準備を進めておりましたが、昭和20年8月1日深夜の富山大空襲により、境内総ての建物を焼失いたしました。終戦を経て、戦後復興の混乱期の中で、本堂の再建をめざして仮本堂が建てられました。昭和30年に勝如上人より復興のご消息をいただき、教区の寺院、門信徒の懇念の結集により、昭和22年7月に勝如上人ご親修のもと入仏慶護法要が勤修されました。それが現在の本堂です。
こうして今日にいたるまで、お念仏の根本道場として越中富山の門徒の方々により崇敬護持されてきました。
平成28年には、専如ご門主さまご親修のもと「本願寺富山別院 親鸞聖人七百五十回大遠忌法要、開創百三十周年記念法要、再建五十周年記念法要」を勤修し、記念事業として本堂・内陣の改修と耐震補強工事、また、境内地の整備を行いました。

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本願寺富山別院の基本情報

住所

富山県富山市総曲輪2-7-12

行き方
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名称

本願寺富山別院

読み方

ほんがんじとやまべついん

参拝料

なし

御朱印あり
限定御朱印なし
御朱印帳に直書きなし
御朱印の郵送対応なし
電話番号076-421-6672
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
宗旨・宗派浄土真宗本願寺派
ご由緒

本願寺富山別院の歴史は、寛政年間に結成された「富山大谷講」が「本山会所」を設け、本山への懇志取次ぎなどを行うために部守居を置いたことに始まります。
明治維新となり、新政府は神道国教化政策を進め、廃仏毀釈(廃仏運動)という運動が吹き荒れました。そして、明治3年10月に富山藩から領内の寺院に対して、突如「合寺令(すべての寺院は一宗一ヶ寺にあらため、ただちに合寺すること)」が発布、断行されました。
当時、富山の領内にあった八宗派400ヶ寺余りの寺院が八ヶ寺に集められました。そのような状況の中で越中門徒の聞法の場、信仰の拠り所として「富山大谷講本山会所」に臨時の説教所が設けられました。
その後、越中の門信徒が一致団結して本山へ請願し、明治12年12月に本願寺説教所開設の許可を得ました。更に、明治17年8月には本堂(桁行十六間、深行十六間、約二百七十坪)、庫裏の新築落成を向かえました。その頃、説教所から別院への昇格運動もはじまり、政府に陳情を重ねた結果、正式に別院昇格への許可を受けました。
しかし、この本堂は明治18年5月に市内より出火した火災によって灰墟と帰しました。再建した仮本堂も明治32年の市中火災で再び焼失。しかし、佐藤助九郎氏(佐藤工業株式会社創業者)の篤木
により再び仮本堂が建てられました。明治40年には教化伝道の本拠大正15年再建の旧本堂として富山教区教務所が置かれました。その後、大正8年11月に別
院再建のご消息をいただき、再建記念事業として徳風会館、徳風幼稚園が建設され、大正15年に本堂 (間口十七間、奥行二十一間、総造、約四百坪)の再建にいたりました。しかし、この本堂も昭和14年5月に焼失してしまいます。
その後、再々度の仮本堂を建設、本堂再建のための準備を進めておりましたが、昭和20年8月1日深夜の富山大空襲により、境内総ての建物を焼失いたしました。終戦を経て、戦後復興の混乱期の中で、本堂の再建をめざして仮本堂が建てられました。昭和30年に勝如上人より復興のご消息をいただき、教区の寺院、門信徒の懇念の結集により、昭和22年7月に勝如上人ご親修のもと入仏慶護法要が勤修されました。それが現在の本堂です。
こうして今日にいたるまで、お念仏の根本道場として越中富山の門徒の方々により崇敬護持されてきました。
平成28年には、専如ご門主さまご親修のもと「本願寺富山別院 親鸞聖人七百五十回大遠忌法要、開創百三十周年記念法要、再建五十周年記念法要」を勤修し、記念事業として本堂・内陣の改修と耐震補強工事、また、境内地の整備を行いました。

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