きたやいなりじんじゃ
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東京都渋谷区神南に鎮座する北谷稲荷神社。JR山手線原宿駅より徒歩約10分、渋谷駅からも徒歩圏内という、まさに都心の真ん中に位置しています。この日は神宮球場で野球観戦を終え、惜しくも敗戦という結果を見届けたのち、気持ちを整えるように明治神宮へ参拝。その場で御守を拝受し、さらに足を延ばしてやって来たのが、この北谷稲荷神社でした。
一歩境内に足を踏み入れると、まず目を引くのは社殿の姿です。伝統的な木造建築を想像して訪れると、良い意味で裏切られます。ガラスとコンクリートを巧みに組み合わせたモダンな造形は、まるでギャラリーかデザインオフィスのよう。境内全体が現代建築の息吹に包まれ、「ザ・シブヤ」と言いたくなるような、洗練と創造の空気が漂っています。神社の敷地を有効に活用し、カフェやイベントスペースなど他のビジネスと共存している点も、都市型神社の新しい在り方を体現しているように感じました。
とはいえ、外観のモダンさに反して、その歴史は意外にも古いものです。北谷稲荷神社の公式ホームページによると、創建は文明年間(1469〜1487年)以前に遡るとされ、室町時代からこの地に鎮座していたと推測されています。長い歴史の中で何度も時代の波を受けながらも、こうして現代の渋谷にその存在を伝えているのです。
御祭神は宇迦之御霊大神で、食と豊穣を司る神さま。配祀神として大己貴大神、大宮比賣大神、神功皇后、そして大田大神が祀られています。いずれも強いご神徳をもつ神々で、商売繁盛や良縁、学業成就など、さまざまな願いを包み込むような包容力を感じさせます。また、境内の末社として土師家天満宮と宇田川出世弁財天があり、学問や芸能、出世運などを祈願する人々の信仰も厚いようです。
参拝を終え、境内を見渡していたところでようやく気づいたのが手水舎でした。石や木ではなく、スタイリッシュなデザイン。神社建築というと古来の形を守る印象が強いですが、北谷稲荷神社は伝統を大切にしながらも、現代都市の景観に調和する新しい神社の姿を示しているといえるでしょう。
渋谷の喧騒のただ中にあっても、ここだけは不思議と静寂が保たれています。古と今が見事に融合した北谷稲荷神社は、まさに「時代をつなぐ神社」。その姿に、都会の中でも信仰が生き続けていることを実感しました。








手水舎

金王八幡宮を出て、模様替え真っ最中の渋谷駅を抜けて代々木体育館の南側の
ビルの中にある北谷稲荷神社をお参りしました。
本殿・社務所などが、ビルの2階(?)の部分を占有していました。
【今どきの神社ですね…】
本殿も神社らしい屋根ではなく、平べったい形です。
以外と境内は広く、ムシムシしてますが、イイ風を感じます。
境内の東側の方にも階段があり、向かってみるとおそらくこちらが正門かと…
【こちらの神社も、ウラからお邪魔しました】
お参りを済ませて御朱印をお願いにいくと快く引き受けて頂けました。

神社の入り口

この階段を上ると、境内、本殿、社務所があります。

上った階段の東側のこちらが正門のようです。

こちらが本殿です。
【ガランガランと鈴を鳴らしました!】

正門と鳥居です。

御朱印です。こちらも直に書いて頂けました。
【生涯現役… まだまだ頑張れということでしょうね】
授与品
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当神社の創立は詳らかではないが、『新編武蔵国風土記稿』によると田中讃岐守直高が文明(1469~87)の頃、駿河(静岡県中央部)より移り住んだ時、その邸内の吉方に神の来臨を請じ迎えて奉ったと記してある。三万坪の御朱印地を拝受したのだが、大永の兵火(1524)に記録を消失し、職員を失った。また萬治三年(1660)大破の際に再建し棟札に武州豊島郡澁谷村稲荷大明神『江戸山王社家小川職部持』とあり、文明以前の鎮守であると思われる。その後承應三年(1654)八月、田中直高六代孫佐平が再建し、寛永五年(1628)四月佐平が再建した。享保十三年(1728)九月松平左京太夫願主として造営し明和八年(1771)同人が再建し、文化元年(1804)九月は拝殿・玉垣を献修した。当社は唇小名北谷の地に在ったことから昔より北谷稲荷という名だった。文政(1818~30)の頃には境内は広く神畑や神園を有していたので「畑の稲荷」とも呼ぱれていた。明治四年(1871)村社に列せられる。また火伏せの神様としても信仰が厚く、他地域よりも火災が少なかったとも伝えられている。その後、事を証する文書や什物は多く残っていたものの、昭和二十年五月二十五日戦災により社殿・社務所・神輿庫・神楽殿その他の全ての建造物を消失してしまう。昭和二十四年九月本殿一部倉亜鉛葦を造営し、同三十三年九月総檜造銅板葦拝殿を造営すると共に社務所、神楽殿を再建した。現在の社殿・建物は老朽化に伴い平成九年十一月に建造された。設計は菊竹清訓設計事務所による。
歴史をもっと見る|| 名称 | 北谷稲荷神社 |
|---|---|
| 読み方 | きたやいなりじんじゃ |
| 御朱印 | あり |
| 限定御朱印 | なし |
| 御朱印帳に直書き | あり |
| 御朱印の郵送対応 | なし |
| 御朱印帳 | あり |
詳細情報
| ご祭神 | 《主》宇迦之霊大神,《配》大己貴大神,大宮比売大神,神功皇后,大田大神 |
|---|---|
| ご由緒 | 当神社の創立は詳らかではないが、『新編武蔵国風土記稿』によると田中讃岐守直高が文明(1469~87)の頃、駿河(静岡県中央部)より移り住んだ時、その邸内の吉方に神の来臨を請じ迎えて奉ったと記してある。三万坪の御朱印地を拝受したのだが、大永の兵火(1524)に記録を消失し、職員を失った。また萬治三年(1660)大破の際に再建し棟札に武州豊島郡澁谷村稲荷大明神『江戸山王社家小川職部持』とあり、文明以前の鎮守であると思われる。その後承應三年(1654)八月、田中直高六代孫佐平が再建し、寛永五年(1628)四月佐平が再建した。享保十三年(1728)九月松平左京太夫願主として造営し明和八年(1771)同人が再建し、文化元年(1804)九月は拝殿・玉垣を献修した。当社は唇小名北谷の地に在ったことから昔より北谷稲荷という名だった。文政(1818~30)の頃には境内は広く神畑や神園を有していたので「畑の稲荷」とも呼ぱれていた。明治四年(1871)村社に列せられる。また火伏せの神様としても信仰が厚く、他地域よりも火災が少なかったとも伝えられている。その後、事を証する文書や什物は多く残っていたものの、昭和二十年五月二十五日戦災により社殿・社務所・神輿庫・神楽殿その他の全ての建造物を消失してしまう。昭和二十四年九月本殿一部倉亜鉛葦を造営し、同三十三年九月総檜造銅板葦拝殿を造営すると共に社務所、神楽殿を再建した。現在の社殿・建物は老朽化に伴い平成九年十一月に建造された。設計は菊竹清訓設計事務所による。 |
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