えんじゅじ/にちかどう
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楽しみ方延寿寺/日荷堂のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年03月02日(月) 19時16分08秒
参拝:2026年2月吉日
妙行寺様からお隣の延寿寺様へ🙏🏻
★延寿寺★
延壽寺開創は今から約三五〇年前
時は明暦二年(1656年)、第四代将軍徳川家綱の時代。
延壽寺は覚性院日勤(かくしょういんにちごん)上人によって開かれました。
開創当初は大乗山延壽院と呼ばれ、同じく谷中にある瑞輪寺との本末関係にありましたが、それもその後解消され、宝永年間(1704年~1710年)に身延山久遠寺の直末となります。
やがて宝暦五年(1755年)に延壽寺と名を改め、その際に身延山山本坊より日荷上人尊像を
勧請しました。
尊像は現在も、日荷堂に安置されており、毎月十日にご開帳しております。
延壽寺として名を改めた、その直後ともいえる宝暦七年(1757年)のこと。関東地方は大規模な洪水に襲われます。
そのため江戸の食糧の供給が途絶え、庶民の暮らしは悪化、悲惨の極みに達します。
そんな折に日蓮大聖人の教えを人々に説いてまわったのが、第十世日鑑(にちかん)聖人。
聖人は日勤上人によって灯された法灯を高く掲げることで、暗くなった人々の心に光を呼び戻したのです。
こうした数々の功績を賞され、宝暦十年(1760年)には、聖人号と中興の祖の称号が贈られます。
しかし、江戸の街はまたしても災害に襲われます。それは明和九年(1772年)のこと、目黒行人坂からの出火が、日本橋に至るまでの広範囲に渡り江戸の街を焼き尽くしたのです。
このとき延壽寺も本堂はじめ、寺宝や什宝もすべてが灰燼に帰します。
日鑑聖人は即座に建て直しを図ります。
壇徒の信施を得て、本堂•客殿•庫裡を再建し、このときに日荷堂も建立され、次いで安永三年(1774年)には富増稲荷堂が再建されました。
安永七年(1778年)に日鑑聖人は隠居の身となり、日解上人へと後を託します。
その際に延壽寺は、日荷上人ゆかりの地、六浦にちなみ、山号を六浦山と改めます。
ペリー来航の四年前の嘉永二年(1849年)、境内に日荷上人の墓を建立。
日荷尊像が延壽寺に安置されて以来、約百年の間人々は「日荷さまのお寺」と呼び親しんで来ましたが、これにより名実ともにそうなったのです。
人々の篤い信仰を受け、世に親しまれた延壽寺でしたが、またしても災いに襲われます。
それは慶応四年(1868年)、明治維新の動乱の最中でした。
上野山で繰り広げられた彰義隊と連合軍の戦火により、山門を残して全ての堂宇を消失してしまいます。
本堂•庫裡、そして日荷堂の仮堂が再建されたのはその後、明治九年(1876年)になってからのこと。仮堂であった日荷堂が新しく再建されたのは、それからさらに三十五年度の明治四十四年(1911年)になってからでした。
ー延寿寺HPーより
★延寿寺★
延壽寺開創は今から約三五〇年前
時は明暦二年(1656年)、第四代将軍徳川家綱の時代。
延壽寺は覚性院日勤(かくしょういんにちごん)上人によって開かれました。
開創当初は大乗山延壽院と呼ばれ、同じく谷中にある瑞輪寺との本末関係にありましたが、それもその後解消され、宝永年間(1704年~1710年)に身延山久遠寺の直末となります。
やがて宝暦五年(1755年)に延壽寺と名を改め、その際に身延山山本坊より日荷上人尊像を
勧請しました。
尊像は現在も、日荷堂に安置されており、毎月十日にご開帳しております。
延壽寺として名を改めた、その直後ともいえる宝暦七年(1757年)のこと。関東地方は大規模な洪水に襲われます。
そのため江戸の食糧の供給が途絶え、庶民の暮らしは悪化、悲惨の極みに達します。
そんな折に日蓮大聖人の教えを人々に説いてまわったのが、第十世日鑑(にちかん)聖人。
聖人は日勤上人によって灯された法灯を高く掲げることで、暗くなった人々の心に光を呼び戻したのです。
こうした数々の功績を賞され、宝暦十年(1760年)には、聖人号と中興の祖の称号が贈られます。
しかし、江戸の街はまたしても災害に襲われます。それは明和九年(1772年)のこと、目黒行人坂からの出火が、日本橋に至るまでの広範囲に渡り江戸の街を焼き尽くしたのです。
このとき延壽寺も本堂はじめ、寺宝や什宝もすべてが灰燼に帰します。
日鑑聖人は即座に建て直しを図ります。
壇徒の信施を得て、本堂•客殿•庫裡を再建し、このときに日荷堂も建立され、次いで安永三年(1774年)には富増稲荷堂が再建されました。
安永七年(1778年)に日鑑聖人は隠居の身となり、日解上人へと後を託します。
その際に延壽寺は、日荷上人ゆかりの地、六浦にちなみ、山号を六浦山と改めます。
ペリー来航の四年前の嘉永二年(1849年)、境内に日荷上人の墓を建立。
日荷尊像が延壽寺に安置されて以来、約百年の間人々は「日荷さまのお寺」と呼び親しんで来ましたが、これにより名実ともにそうなったのです。
人々の篤い信仰を受け、世に親しまれた延壽寺でしたが、またしても災いに襲われます。
それは慶応四年(1868年)、明治維新の動乱の最中でした。
上野山で繰り広げられた彰義隊と連合軍の戦火により、山門を残して全ての堂宇を消失してしまいます。
本堂•庫裡、そして日荷堂の仮堂が再建されたのはその後、明治九年(1876年)になってからのこと。仮堂であった日荷堂が新しく再建されたのは、それからさらに三十五年度の明治四十四年(1911年)になってからでした。
ー延寿寺HPーより
すてき
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