いちじょうじ
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一乗寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年04月26日(水)
参拝:2023年4月吉日
初めての訪問。
4/15〜猫様の切り絵御朱印が拝受できるとのことでお参りに行きました😺
【一乗寺】
当山は、山号を大法山といい、一乘院日僚(いちじょういんにちりょう)上人(〜1617。本山茂原藻原寺第17世。妙性院とも称し、字は禅恵)によって開かれた日蓮宗の寺院です。言問通りに面し、角に位置することから、角の一乘寺を略し、「かどいち」と古来より呼ばれています。創建の年代は、天正年間(1573年〜1592年)であると伝えられます。
開山の日僚上人は、その出自や人物像が詳らかではありません。なお、一乘寺に現存する「霊簿(過去帳)」(安永8年〈1779年〉施入)に、慈雲院日新上人(〜1592年。日蓮宗総本山身延山久遠寺第17世•本山藻原寺第15世•本山谷中瑞輪寺開山。字は純慧)の弟子であると記されています。また、弟子に妙性院日逞上人(本山藻原寺第20世•本山京都妙伝寺第14世)があります。当山の他に茂原圓頓寺等を開かれました。
所在地は創建以来現住所と同じです。
ー一乗寺HPよりー
4/15〜猫様の切り絵御朱印が拝受できるとのことでお参りに行きました😺
【一乗寺】
当山は、山号を大法山といい、一乘院日僚(いちじょういんにちりょう)上人(〜1617。本山茂原藻原寺第17世。妙性院とも称し、字は禅恵)によって開かれた日蓮宗の寺院です。言問通りに面し、角に位置することから、角の一乘寺を略し、「かどいち」と古来より呼ばれています。創建の年代は、天正年間(1573年〜1592年)であると伝えられます。
開山の日僚上人は、その出自や人物像が詳らかではありません。なお、一乘寺に現存する「霊簿(過去帳)」(安永8年〈1779年〉施入)に、慈雲院日新上人(〜1592年。日蓮宗総本山身延山久遠寺第17世•本山藻原寺第15世•本山谷中瑞輪寺開山。字は純慧)の弟子であると記されています。また、弟子に妙性院日逞上人(本山藻原寺第20世•本山京都妙伝寺第14世)があります。当山の他に茂原圓頓寺等を開かれました。
所在地は創建以来現住所と同じです。
ー一乗寺HPよりー
☆山門☆
みずらいですが『水中出現 開運帝釈天王安置』と彫られています😊
☆参道と御本堂☆
☆社務所☆
御朱印
サイズも種類もたくさんあります😊
サイズも種類もたくさんあります😊
御朱印•御首題帳も何種類かありました😊
花手水御朱印 〜白花器編〜
切り絵御朱印 〜紫陽花とネコ〜
☆御本堂☆
☆帝釈天☆
安永年間(1772年〜1781年)に、松屋橋通り(現在の日本橋)の川中から夜な夜な光りが発っせられました。これを町民が怪しみ、安永9年(1780年)4月川底を探ると、帝釈天の石像が出現しました。松屋町3丁目の地主が協議した上、松屋橋際の川岸へ小堂を設け安置しました。同年10月、地主は谷中一乗寺に委託します。以来、霊験あらたかと、石像を信ずる者が増加していきました。
のちの明治9年(1876年)11月、日本橋桧物町(現在の日本橋三丁目)より出火の際、松屋橋が消失します。新規の架け橋の際、拡張を仰せ付けられたことにより、地主である牧玉蔵の志願によって、同人の所有地である本八丁堀1丁目内に移し、安置されました。以後、京橋の帝釈様として近隣に信徒を有し、東都において有名となりました。
のち、戦災のために堂宇が焼失し、信徒もまた離散したため、現地における復興•維持は難しいと考え、信徒•総代らと協議の結果、昭和24年9月11日に京橋より当山に移し、奉安することとなりました。
一乗寺では庚申の日に開帳•読経をして、威徳を讃えております。
安永年間(1772年〜1781年)に、松屋橋通り(現在の日本橋)の川中から夜な夜な光りが発っせられました。これを町民が怪しみ、安永9年(1780年)4月川底を探ると、帝釈天の石像が出現しました。松屋町3丁目の地主が協議した上、松屋橋際の川岸へ小堂を設け安置しました。同年10月、地主は谷中一乗寺に委託します。以来、霊験あらたかと、石像を信ずる者が増加していきました。
のちの明治9年(1876年)11月、日本橋桧物町(現在の日本橋三丁目)より出火の際、松屋橋が消失します。新規の架け橋の際、拡張を仰せ付けられたことにより、地主である牧玉蔵の志願によって、同人の所有地である本八丁堀1丁目内に移し、安置されました。以後、京橋の帝釈様として近隣に信徒を有し、東都において有名となりました。
のち、戦災のために堂宇が焼失し、信徒もまた離散したため、現地における復興•維持は難しいと考え、信徒•総代らと協議の結果、昭和24年9月11日に京橋より当山に移し、奉安することとなりました。
一乗寺では庚申の日に開帳•読経をして、威徳を讃えております。
☆花手水☆
☆太田錦城墓☆
太田錦城 (1765年 ~ 1825 年)は江戸時代中期の儒学者で、名は元貞、字は公幹、才佐と称し、錦城は号である。
加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒であった皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。
晩年にいたり、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、三百石を給せられた。
文政八年四月二十三日、六十一歳で没した。
太田錦城 (1765年 ~ 1825 年)は江戸時代中期の儒学者で、名は元貞、字は公幹、才佐と称し、錦城は号である。
加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒であった皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。
晩年にいたり、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、三百石を給せられた。
文政八年四月二十三日、六十一歳で没した。
☆大久保適斎(おおくぼてきさい)墓所☆
天保11年~明治44年2月17日(1840年〜1911年)
鍼灸師•医師。明治12年群馬県医学校(1879年〜1881年)の初代校長•病院長(群馬県前橋市)を務め、東洋医学の鍼灸と当時の最先端医療である西洋医学とを駆使して医療を行った。明治19年(1886)高崎市新町に大久保医院を開院。明治期に西洋医学が脚光を浴びる中、漢方をはじめとした東洋医学は衰退するが、鍼灸の医学的研究は成熟するようになり、大久保もその研究に励んだ。特に、鍼灸刺激は交感神経を介して心臓に影響を与えると提唱した。
天保11年~明治44年2月17日(1840年〜1911年)
鍼灸師•医師。明治12年群馬県医学校(1879年〜1881年)の初代校長•病院長(群馬県前橋市)を務め、東洋医学の鍼灸と当時の最先端医療である西洋医学とを駆使して医療を行った。明治19年(1886)高崎市新町に大久保医院を開院。明治期に西洋医学が脚光を浴びる中、漢方をはじめとした東洋医学は衰退するが、鍼灸の医学的研究は成熟するようになり、大久保もその研究に励んだ。特に、鍼灸刺激は交感神経を介して心臓に影響を与えると提唱した。
すてき
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