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楽しみ方華徳院のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年02月24日(月)
参拝:2025年2月吉日
華徳院は、称光山長延寺と号する天台宗の寺院で、本尊は閻魔王像である。もとは下野国佐野(現在の栃木県佐野市)に創建され、江戸時代には「江戸三閻魔」の一つとして信仰を集めた。
● 華徳院の創建と移転の歴史
9世紀、天台宗の高僧・慈覚大師円仁によって下野国佐野に開山された。当初の寺号は理正院長延寺であった。その後、天正年間(1573年~1592年)に武蔵国霞ヶ関(現・東京都千代田区)へ移転し、さらに慶長年間(1596年~1615年)に浅草蔵前へと再転した。
● 江戸時代の発展と「江戸三閻魔」
寛保3年(1743年)、寺格が大寺に引き上げられ、翌延享年間(1744年~1748年)に寺号を華徳院と改めた。これは大檀那である堀丹後守直時(1643年没)の法名に由来する。江戸時代には、新宿・太宗寺、巣鴨・善養寺とともに「江戸三閻魔」の一つとして広く知られ、特に正月と7月16日の大斎日には多くの参拝者で賑わった。
● 本尊・閻魔大王と仏像
華徳院の本尊・閻魔大王像は、大仏師・運慶の作と伝えられた。また、姥堂には本尊と同じ木から造られた奪衣婆像があり、さらに聖徳太子作とされる化馬地蔵尊も祀られていた。これらの仏像が安置されていたことから、華徳院は「蔵前の閻魔堂」とも呼ばれた。
● 関東大震災と戦禍による焼失
大正12年(1923年)、関東大震災により本堂が焼失し、閻魔大王像をはじめとする諸仏も失われた。その後、日光輪王寺から閻魔大王を迎え、蔵前の旧地に新たな堂宇を建立した。しかし、昭和20年(1945年)の戦災でこの堂宇も焼失したが、閻魔大王像は奇跡的に焼失を免れた。
● 現在の華徳院
大正2年(1913年)から杉並区松ノ木へ墓地の移転が進められていたため、大正12年の震災後、昭和4年(1929年)に本堂が杉並に再建された。本尊には、新宿区牛込にあった千手院行元寺の閻魔大王像が迎えられた。現在、華徳院は閑静な住宅街の中にあり、江戸時代の賑わいとは異なり、静かに本尊会が営まれている。また、境内には江戸期の句碑や無縁塔、石仏63体が残されている。
● 華徳院の創建と移転の歴史
9世紀、天台宗の高僧・慈覚大師円仁によって下野国佐野に開山された。当初の寺号は理正院長延寺であった。その後、天正年間(1573年~1592年)に武蔵国霞ヶ関(現・東京都千代田区)へ移転し、さらに慶長年間(1596年~1615年)に浅草蔵前へと再転した。
● 江戸時代の発展と「江戸三閻魔」
寛保3年(1743年)、寺格が大寺に引き上げられ、翌延享年間(1744年~1748年)に寺号を華徳院と改めた。これは大檀那である堀丹後守直時(1643年没)の法名に由来する。江戸時代には、新宿・太宗寺、巣鴨・善養寺とともに「江戸三閻魔」の一つとして広く知られ、特に正月と7月16日の大斎日には多くの参拝者で賑わった。
● 本尊・閻魔大王と仏像
華徳院の本尊・閻魔大王像は、大仏師・運慶の作と伝えられた。また、姥堂には本尊と同じ木から造られた奪衣婆像があり、さらに聖徳太子作とされる化馬地蔵尊も祀られていた。これらの仏像が安置されていたことから、華徳院は「蔵前の閻魔堂」とも呼ばれた。
● 関東大震災と戦禍による焼失
大正12年(1923年)、関東大震災により本堂が焼失し、閻魔大王像をはじめとする諸仏も失われた。その後、日光輪王寺から閻魔大王を迎え、蔵前の旧地に新たな堂宇を建立した。しかし、昭和20年(1945年)の戦災でこの堂宇も焼失したが、閻魔大王像は奇跡的に焼失を免れた。
● 現在の華徳院
大正2年(1913年)から杉並区松ノ木へ墓地の移転が進められていたため、大正12年の震災後、昭和4年(1929年)に本堂が杉並に再建された。本尊には、新宿区牛込にあった千手院行元寺の閻魔大王像が迎えられた。現在、華徳院は閑静な住宅街の中にあり、江戸時代の賑わいとは異なり、静かに本尊会が営まれている。また、境内には江戸期の句碑や無縁塔、石仏63体が残されている。
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