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あさがやしんめいぐう

阿佐ヶ谷神明宮の御由緒・歴史
東京都 阿佐ケ谷駅

歴史詳細情報

この神社は、旧阿佐ヶ谷村の鎮守で、主祭神は天照大御神です。
天保七年(一八三六)に刊行された『江戸名所図会』巻四によると、日本武尊が東征の帰途、阿佐谷の地で休息し、のちに尊の武功を慕った村人が旧社地(現阿佐谷北五-三五付近、同周辺一帯をお伊勢の森と称した)に一社を建て、神明宮を勧請したのが当宮の始まりといわれます。
建久年間(一一九〇~一一九八)には土豪横井兵部(一説には横川)が伊勢神宮に参拝した折、神の霊示をうけ、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられています。その後、江戸時代中頃に至り、衹海という僧が神告により社を現在地に移し、世尊院が別当職を勤めたといわれます。
当宮は、村をこえた地域からの信仰も篤く、その一端を示す「内藤新宿仲下旅籠屋中 仲下茶屋中」の文字が刻まれた文政十一年(一八二八)の銅製の三本御幣が奉納されています。
秋の例大祭に能楽殿で奉納される「阿佐ヶ谷囃子」(区登録無形民俗文化財)は、江戸時代末期からの伝統があり、区内では早くに伝えられた囃子です。ここから井草囃子をはじめ、鷺宮(中野区)、戸塚(新宿区)などに流布していったといわれます。
阿佐ヶ谷神明宮由緒書き
編集:ホトカミ編集部
最終更新: 2020年02月02日(日)

目次

ご祭神《主》天照大神
ご由緒

この神社は、旧阿佐ヶ谷村の鎮守で、主祭神は天照大御神です。
 天保七年(1836)に刊行された『江戸名所図会』巻四によると、日本武尊が東征の帰途、阿佐谷の地で休息し、のちに尊の武功を慕った村人が旧社地(現阿佐谷北5-35付近、同周辺一帯をお伊勢の森と称した)に一社を建て、神明宮を勧請したのが当宮の始まりといわれます。
 建久年間(1190〜1198)には土豪横井兵部(一説には横川)が伊勢神宮に参拝した折、神の霊示をうけ、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられています。その後、江戸時代中頃に至り、祇海という僧が神告により社を現在地に移し、世尊院が別当職を勤めたといわれます。
 当宮は、村をこえた地域からの信仰も篤く、その一端を示す「内藤新宿仲下旅籠屋中 仲下茶屋中」の文字が刻まれた文政十一年(1828)の銅製の三本御幣が奉納されています。
 秋の例大祭に能楽殿で奉納される「阿佐ヶ谷囃子」(区登録無形民俗文化財)は、江戸時代末期からの伝統があり、区内では早くに伝えられた囃子です。ここから井草囃子をはじめ、鷺宮(中野区)、戸塚(新宿区)などに流布していったといわれます。

歴史
由緒[編集] 建久元年(1190年)頃の創祀と伝える。土豪横井兵部(一説には横川兵部とも)が伊勢神宮に参拝した際に、神の霊示を受け、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられ、この霊石は今も御神体として祀られている[1]。 霊石は石棒であると言われる[2]。 寛政12年(1800年)に著された『江戸名所図会』によると、日本武尊が東征の帰途阿佐谷の地で休息し、後に尊の武功を慕った村人が旧社地(お伊勢の森と称される現在の阿佐谷北五丁目一帯)に一社を設けたのが始まりとされている[3]。当社の別当寺だった世尊院 (杉並区)の住職・祇海の時代に現在地に移転したと伝わる[2]。 江戸時代から庶民...Wikipediaで続きを読む
引用元情報阿佐ヶ谷神明宮」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E9%98%BF%E4%BD%90%E3%83%B6%E8%B0%B7%E7%A5%9E%E6%98%8E%E5%AE%AE&oldid=99026115

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