せたがやはちまんぐう
あなたのサポートが必要です〈特典あり〉
御朱印 | |||
---|---|---|---|
限定 | - | ||
御朱印帳にお書き入れ | |||
御朱印帳 | - | ||
駐車場 | あり |
おすすめの投稿
寛治5年(1091)後三年の役の帰途、源義家がここ宮の坂の地で豪雨に遭い、天候回復を待つため滞在。『此度の戦勝は日頃から氏神としている八幡大神の加護に依る』との思いから豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀ったのが始まりと云われる。
後に世田谷城主七代目の吉良頼康が天文15年(1546)に社殿を再興させて発展させた。この時が実質的な創建の時と考えられる。
明治5年(1872)、社号を「宇佐神社」と改めたが、第二次大戦後、「世田谷八幡宮」の名に復した。
かつては奉納相撲の勝敗によって来年の豊作・凶作を占ったり、今年の豊作を感謝したため、境内には土俵や力石がある。
渋谷氷川神社、大井鹿嶋神社とともに江戸郊外三大相撲のひとつとされていた。今でも毎年秋の例祭(9月15日)には東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われている。
歴史
世田谷八幡宮の御鎮座は、今から約九百数十年前、第七十三代堀河天王の寛治五年(1091)、当時陸奥国(奥州)の鎮守府将軍として任ぜられた源義家が、幾多の苦を重ねて清原家衡を金沢柵にて攻め平定した後三年の役(1087-1094)の頃です。
義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待つため十数日間滞在する事となりました。もとより敬神の念を厚く持つ義家は、今度の戦勝は日頃氏神(守神)として信仰する八幡大神様の御加護に依るものと深く感謝し、備前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申上げ盛大なる勧請報斎・奉祝のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われています。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事でも有名であり、現在でも奉納相撲として伝えられています。
その後の八幡様は当社に残る棟札によると「当社 八幡宮建立大檀那源朝臣頼貞。天文十五年丙午八月二十日建立、十二月二十日癸卯御遷宮」とあり、約四百数十年前の第百五代後奈良天皇の御世に世田谷城主であった吉良頼貞・頼康が社殿を修築造営し、またこの時、現在でも社宝として残っている備前雲次の太刀(二尺三寸)一振を寄進したと云われています。
このように当社八幡さまは吉良家の祈願所として、神職はその当時の家臣一家老職大場家の一分家たる大場氏により祭典が行われてきましたが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東征伐にあたり吉良氏は小田原の北条氏と共に滅んでしまいました。
その翌年の天正十九年(1591)に江戸城に入城した徳川家康も、源氏の出身であり、その氏神八幡神を崇敬し、当社に社領として十一石を寄進しました。以来徳川家代々の将軍は、朱印地として社領11石を寄進する習わしとなりました。
明治維新後の八幡さまは、明治五年に世田谷の総鎮守として郷社宇佐神社となり旧世田谷村の地および羽根木を氏子地域と定めましたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、郷社の社格も廃止され、また、社名も朱印状などの文献により元来の世田谷八幡宮と復元されました。
昭和三十九年五月に社殿を改築し、現在の荘厳な社殿となり世田谷の鎮守の神様として多くの人達に厚く信仰されています。
名称 | 世田谷八幡宮 |
---|---|
読み方 | せたがやはちまんぐう |
通称 | 宮の坂八幡様 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 03-3429-1732 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | https://80000.or.jp/ |
絵馬 | あり |
SNS |
詳細情報
ご祭神 | 《合》宇迦之御魂神,菅原道真,天照大神,《主》応神天皇,仲哀天皇,神功皇后 |
---|---|
創建時代 | 寛治五年(1091) |
ご由緒 | 世田谷八幡宮の御鎮座は、今から約九百数十年前、第七十三代堀河天王の寛治五年(1091)、当時陸奥国(奥州)の鎮守府将軍として任ぜられた源義家が、幾多の苦を重ねて清原家衡を金沢柵にて攻め平定した後三年の役(1087-1094)の頃です。
|
ホトカミのデータについて
ホトカミには、日本最大となる全国15万8千件の神社お寺の情報や、2万件以上の御朱印のオリジナルデータがあります。
ご利用になりたい法人様やメディア関係の方々は、こちらよりお気軽にご相談ください。
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
2
0