まんがんじ|真言宗智山派|到航山
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楽しみ方満願寺のお参りの記録一覧

本堂前の広場には白い砂利が敷き詰められ、その上に幾何学的な敷石が配されており、本堂・右手の庫裏・左手の講堂を直線的かつ美しく結んでいます。昭和の名匠・吉田五十八による建築と相まって、静かで洗練された空間が広がっていました。
この日は境内で草むしりが行われており、日々の手入れの丁寧さを感じました。


正式名:致航山感應院滿願寺
東京都世田谷区等々力にある真言宗智山派の仏教寺院で、伝承によれば平安時代末期の創建とされる。
文明2年(1470)、吉良氏の祈願寺として世田谷城の出城、兎々呂城(とどろき)に再興され、中興開山は定栄和尚と伝わる。
天文年間に深沢の兎々呂城(現在の都立園芸高校)から現在地に移転された。
江戸時代になると、御朱印寺寺領13石を与えられ、この時それまでの山号「医王山」を現在の「致航山」と改め、本尊を薬師如来から金剛界大日如来とした。
日本三体地蔵といわれた満願寺の一言地蔵尊は講堂に安置され、一言祈願すると願いが叶うといわれている。
また、指定文化財の絵巻も所蔵され、書の曼荼羅世界を展示している。



















































23.12.07。先の等々力不動尊(明王院)より徒歩15分。世田谷区等々力3丁目にあり、明王院の本院である真言宗智山派の寺院。
《せたがや百景》
山号 到航山
院号 感應院
創建 平安時代末期
本尊 金剛界大日如来
札所 玉川八十八ヶ所霊場
第五十四番
【縁起】~境内掲示板より〜
当山の開創は平安末と伝えられる。室町時代に吉良氏の世田谷城の出城、兎々呂城に祈願寺として現在地に移され中興された。山号を医王山から到航山に改め、このときに本尊は薬師如来から大日如来となった。
徳川幕府より寺領十三石を得、総本山に代わって仏教、密教を教え伝える灌頂道場でもあり常法談林所の格式を持つ寺である。
山門・本堂等は、昭和43年に近現代の数寄屋造りの泰斗である、吉田五十八氏の設計によるものとのことです。古刹の歴史を持つ中、スッキリとした美しい寺院でした。


山門方向

門前

縁起

元禄年中に柳沢吉保に重用された書家のお墓が国の史跡であることによる標柱。


山門


参道

鐘楼
山門を潜り左手奥にあります。

梵鐘

本堂


本堂裏手の庭園にある大塔
年に3回(7月7日、春秋のお彼岸中日)、庭園と共に公開される模様です。

講堂

講堂の右側に《一言地蔵尊》
↓

一説では日本三体地蔵尊の一つ。

宝篋印塔


永代供養塔
「普賢延命大安楽不空眞實一百八臂金剛蔵王大菩薩」とあります。
↓


六地蔵

講堂遠景

弘法大師一千百年御遠忌供養塔

客殿、寺務所
右端の寺務所で直書きの御朱印を拝受。

境外に
↓

庚申堂
↓


過去参拝。山門から中を見ると奥のお堂のガラスに山門が映り込み、現代建築ならではの瀟洒な造形は著名な現代建築家吉田五十八が設計されたとのこと。吉田氏は日本の伝統建築数寄屋造りを今に合う様式にした第一人者です。
中庭はシンプルですが山門に看板があり、菫(スミレ)の花が育っているそうです。雑草と間違われて抜かれた事があったのか、大きな看板で目立っていました。

山門が奥のガラスに映し出されます。鏡の国のようです。

塔が小さく見えるほど境内が広いです

世田谷区の説明板

満願寺の説明板

すっきりとした近代建築と木々の樹形の対比が洒落ています

近隣の方が代々手入れをしている庚申塔

世田谷・等々力にある満願寺に参詣。山門の扁額「致航山」の文字は細井広沢によるもの。通常の御朱印は直接書込みでいただきました。東急花の御朱印は書置きのものをいただきました。

本堂

本堂の扁額は細井広沢の子、細井九皋(きゅうこう)の書



山門〜扁額は細井広沢の書

一言地蔵


諦めない心〜じゃない 諦めが肝心

大塔は次は7/7開帳だそうです

近代的なお寺。
ご本尊は拝顔出来ませんでしたが、地蔵菩薩像を拝めました。

大日如来

地蔵菩薩立像
躰の黄金と法衣の彩色が美しい。
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