じゅうらくじ
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十楽寺ではいただけません
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十楽寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年11月09日(木)
参拝:2023年10月吉日
憧れの四国八十八霊場巡り 2回目に出かけました。
道には詳しくないので 札所の番号順にしました。
四国八十八カ所霊場巡り 7番札所のお寺です。
山号は光明山
院号は蓮華院
宗旨宗派は高野山真言宗
ご本尊は阿弥陀如来
です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
ご詠歌:人間の八苦(はっく)を早く離れなば 到(いた)らん方(かた)は九品十楽(くぼんじゅうらく)
でした。
駐車場から境内に続く階段の手前に鐘楼門があります。
鐘楼門をくぐるとすぐに水子地蔵様。
続いて階段を上がると次は中門です。
この山門 裏手に回ると 「縁切門」と「縁結門」がありました。
「縁結門」から入ったのですが 中は繋がっており 中央に 藍染明王が鎮座されておりました。
また 写真は撮らなかったのですが 愛染明王にちなんだアートの展示スペースもありました。
一応手水舎だと思うのですが 不思議な石が置かれていました。
立派な本堂では ガラス越しにご本尊を拝見しようと思いましたが どうやら厨子の中のようでした。
境内には 立派な多宝塔と大師堂もあります。
こちらも中門右手に宿坊がありました。
そうそう こちらの十楽寺さんだけ 他の霊場と異なる点がありました。
それは 御朱印拝受の際 今年弘法大師様1250年記念のカードを拝受することができるのですが こちらでは取り扱っていないとのことでした。
由緒については
寺伝によれば 空海(弘法大師)がこの地に逗留した際に阿弥陀如来を感得し 楠にその像を刻み本尊として祀ったとされる。
その際に 空海は人間の持つ八苦(生、老、病、死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦)を離れ 極楽浄土に往生すると受けられる十の光明に輝く楽しみ(聖衆来迎楽、蓮華初会楽、身相神通楽、五妙境界楽、快楽無退楽、引接結縁楽、聖衆倶会楽、見仏聞法楽、随心供仏楽、増進仏道楽)が得られるようにと山号・寺号を「光明山十楽寺」とした。
当初は現在地よりおよそ3km離れた十楽寺谷の堂ヶ原に堂宇を建立したものと推定されている。
阿波北部でも有数の広大な七堂伽藍を有していたが 天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべてが焼失。
しかし 本尊・脇仏・舎利仏など大切なものは住職真然と弟子が運び出し大門ケ原に安置したが 弟子は矢に射られ死んでしまった。
その後 寛永12年(1635年)に現在地で再建された。
とありました。
道には詳しくないので 札所の番号順にしました。
四国八十八カ所霊場巡り 7番札所のお寺です。
山号は光明山
院号は蓮華院
宗旨宗派は高野山真言宗
ご本尊は阿弥陀如来
です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
ご詠歌:人間の八苦(はっく)を早く離れなば 到(いた)らん方(かた)は九品十楽(くぼんじゅうらく)
でした。
駐車場から境内に続く階段の手前に鐘楼門があります。
鐘楼門をくぐるとすぐに水子地蔵様。
続いて階段を上がると次は中門です。
この山門 裏手に回ると 「縁切門」と「縁結門」がありました。
「縁結門」から入ったのですが 中は繋がっており 中央に 藍染明王が鎮座されておりました。
また 写真は撮らなかったのですが 愛染明王にちなんだアートの展示スペースもありました。
一応手水舎だと思うのですが 不思議な石が置かれていました。
立派な本堂では ガラス越しにご本尊を拝見しようと思いましたが どうやら厨子の中のようでした。
境内には 立派な多宝塔と大師堂もあります。
こちらも中門右手に宿坊がありました。
そうそう こちらの十楽寺さんだけ 他の霊場と異なる点がありました。
それは 御朱印拝受の際 今年弘法大師様1250年記念のカードを拝受することができるのですが こちらでは取り扱っていないとのことでした。
由緒については
寺伝によれば 空海(弘法大師)がこの地に逗留した際に阿弥陀如来を感得し 楠にその像を刻み本尊として祀ったとされる。
その際に 空海は人間の持つ八苦(生、老、病、死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦)を離れ 極楽浄土に往生すると受けられる十の光明に輝く楽しみ(聖衆来迎楽、蓮華初会楽、身相神通楽、五妙境界楽、快楽無退楽、引接結縁楽、聖衆倶会楽、見仏聞法楽、随心供仏楽、増進仏道楽)が得られるようにと山号・寺号を「光明山十楽寺」とした。
当初は現在地よりおよそ3km離れた十楽寺谷の堂ヶ原に堂宇を建立したものと推定されている。
阿波北部でも有数の広大な七堂伽藍を有していたが 天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべてが焼失。
しかし 本尊・脇仏・舎利仏など大切なものは住職真然と弟子が運び出し大門ケ原に安置したが 弟子は矢に射られ死んでしまった。
その後 寛永12年(1635年)に現在地で再建された。
とありました。
すてき
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