曹洞宗
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【瑞麟山(ずいりんざん)慈雲院(じうんいん)丈六寺(じょうろくじ)】
本尊:釈迦如来・聖観音
宗派:曹洞宗
中興:細川成之・金岡用兼(開山)
丈六寺は、徳島県徳島市丈六町丈領に位置します。丈六寺の歴史は古く、650(白雉元)年に関東地方よりたどりついた尼僧が、この地に庵を構えたことにはじまると伝えられています。室町時代中期、阿波国・三河国・讃岐国の守護大名 細川成之が金岡用兼を招いて宗派を曹洞宗に改めて中興開山し、伽藍を整備しました。
寺号の丈六寺は、丈六仏(仏の身長が一丈六尺(約4.8m)あったとの伝承から、立像で4.8m、坐像ではその半分の2.4mの像)の観音像を安置していることが由来となっているようです。
徳島県内の寺院の中では文化財が多く、別名「阿波の法隆寺」と呼ばれています。
【総門(一の門)】
【中門(二の門)】
【鐘楼】
【三門】
国の重要文化財。
【鐘楼】
【本堂】
国の重要文化財。釈迦如来が祀られています。
【本堂 扁額】
【振り返って見る三門】
【僧堂】
【徳雲院】
【徳雲院 血天井】
次のような伝説があります。
「戦国時代、土佐の戦国大名 長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)は四国平定の野望を抱き阿波国に攻め込んだ。那賀郡まで攻め入った際、ここを治める富岡城主の新開入道道善は勇猛で知られており攻めあぐねた。元親は一計を案じ、和議を申し入れ、道善を丈六寺に呼び出し酒宴を開いた。和議の条件として、道善に対し四国統一の後に富岡城主の地位を確保し勝浦郡を与えるという案を示した。好条件に道善主従は大いに満足し、酒宴は盛り上がった。道善主従が、夕刻、宴を辞して帰ろうと縁側に出たところを、隠れていた元親の家臣に襲撃された。道善主従も応戦したが、多勢に無勢で全員殺害された。この時の手形や足形の血痕は、拭っても消えなかったと言われる。」
この縁板を天井に用いて後世造られました。
【経蔵】
国の重要文化財。
【観音堂】
国の重要文化財。聖観音が祀られています。
【聖観音坐像】
国の重要文化財。
【墓石群】
672年関東から来た尼僧が庵を結んだのが始まりと伝わる。
1466年阿波国・讃岐・三河の守護職・細川成之が金岡用兼を招き曹洞宗に改め中興、伽藍を整備した。
境内には細川成之を始め細川家の縁者や家臣、蜂須賀家家臣の古い墓が数多く残されている。
現在の本堂(重文)は1629年蜂須賀家政が四女・辰の供養のため方丈を再建したものである。
三門(重文)は室町時代末期の建築。
経蔵(重文)は1568年細川真之が修行僧の衆寮(座禅する室)として建立したもので、1727年改修され経蔵に改められた。
観音堂(重文)は1567年細川真之が父・持隆の17回忌に寄進したもの。
観音堂に安置されている聖観音坐像(重文)は藤原時代、平安末期の作と推定される。座高3.1mの丈六仏で丈六寺の寺名の由来となった仏様である。
左手の蓮のつぼみは悟っていない人間を表し、右手は説法印を結ぶ。このような形式の現存する聖観音丈六坐像は日本唯一であるという。
徳雲院は戦国時代に細川持隆が薬師如来を祀る持仏堂として建立したもので、現在の建物は1642年に改築されたものである。
徳雲院前の回廊の天井板はいわゆる血天井で、阿波に攻め込んだ長宗我部元親と戦った牛岐城主・新開道善を謀殺した際の血痕と言い伝えられている。
本堂
本堂
本堂
本堂
三門
三門
三門
三門
三門
徳雲院
徳雲院
血天井
僧堂
僧堂
鐘撞堂
鐘楼
鐘楼
鐘楼
総門(一の門)
二の門
経蔵
経蔵
観音堂
観音堂
観音堂
聖観音
聖観音
宝物館
名称 | 丈六寺 |
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御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 088-645-0334 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
巡礼の詳細情報
阿波秩父観音霊場 第24番 | 御詠歌: 千代やふる 誓いを法の 舟歌に 唱えて渡れ 丈六の岸 |
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詳細情報
ご本尊 | 釈迦如来 |
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宗旨・宗派 | 曹洞宗 |
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