さのはらじんじや
佐野原神社のお参りの記録一覧
お昼頃に参拝。
休憩に行こうとしていた宮司さんを私の前にいらしたご夫婦がひきとめてくださり、御朱印をいただくことができました。
ですがとても気さくな方で、快く対応してくださいました。本当に感謝です。
また、桜も開いていました!
沼津・御殿場地区神社巡り① 昨日がすごく良い天気で神社へ行こうか迷っている内に時が過ぎ、今朝は行く気満々だったが生憎の天気。富士山は諦めて雨だけは降らないでと願いながらの参拝。藤原定家の子孫、藤原(二条)為冬を祀る神社で足利尊氏が鎌倉幕府倒幕の際に帝の命で親友である尊氏討伐の為に戦うも味方の裏切りにより、この辺りで自刃したとされ、明治になり創建されたものです。他にあまり聞かない御祭神で興味深く参拝させていただきました。ご縁がなくて御朱印は戴けませんでした。
社号標
神橋
由緒書
鳥居
手水舎
参道
藤原為冬卿歌「よそめには さそまかふらむやまさくら 木の下にたに雲かとそ見る」
社号標
十三塚
妙法 宮方塔
燈籠
宝物殿
狛犬
拝殿
扁額
本殿
境内社 御神木根社
将軍塚
十三塚 為冬の従者を祀った塚で、将軍塚を含めてこの地区に13あります
佐野原神社の文字は何とか読めますが、何の碑か不明
十三塚
十三塚
芭蕉句碑「眼にかかる 時や殊更 さつき富」 天保十二年(1841)
建武2年(1335)の箱根・竹ノ下の戦いで
佐野原の地で討ち死にした二条為冬を地元
の人々が亡骸を埋葬し、十三の塚を建てて
弔い、中でも為冬卿の塚を将軍塚と呼んで
崇敬してきたと口碑がありました。
明治維新によって実現した王政復古は
数百年前の理想の再現ということもあり、
建武中興以来の王政復古の流れの中で、
明治政府主導の御陵墓調査が実施されたが、
この将軍塚の他には現在の小山町にある
白旗神社でも二条為冬卿の墳墓の地を主張
していたので、その是非を調査するために、
明治7年(1874)明治政府の教部省は
将軍塚を調査させました。
しかし、建武中興の大いなる功労者である
為冬卿が祀られないばかりか、その事実さえ
十分に知られていないことに土地の人々は
大きな悲しみを感じていました。中央の
こうした動きに呼応して神社創建のために
立ち上がったのが、平松新田の服部大八、
須山村の渡邊隼雄、佐野村の岩崎佐十郞、
三好維堅、伊豆島田村の水口伝蔵の5人
であり、服部が中心となって懸命の努力や
また建武中興に尽くした皇族や武将を祀る
神社が明治になってそれぞれの縁の地に
次々に作られたことも影響して、平松新田
にあった将軍塚に佐野原神社創建および
十二の塚についても古跡を毀損しないように
保存することが政府によって指示されたこと
によって、明治9年(1876)2月27日に
佐野原神社が創建されました。
佐野原神社の主祭神、藤原朝臣二条為冬卿は、建武二年(1335)足利尊氏が後醍醐天皇に背き鎌倉で挙兵したとき、尊良親王股肱の臣として公家大将となって東下しました。しかし、箱根竹之下の戦いで味方の大友・佐々木の寝返りで敗れ、佐野原へ退いた後、ここで戦いで討ち死にました。建武二年十二月十二日のことです。(太平記)
社務所が閉まっていて御朱印は諦めて参拝だけして帰ろうとしたらたまたま宮司さんが通りかかり、お休みなのに御朱印対応していただけました。兼務社の八幡宮と山神社の御朱印も一緒にいただき、車置かせてもらって徒歩で参拝してきました。
社務所は土曜日、日曜日、祝日の9時〜15時
までと案内あり。
銀杏の葉もまだ黄色くまだまだ黄葉が楽しめます。
御朱印は通常御朱印と疫病退散御朱印を頂きました。
両方とも朱印の色が違う二条為冬鄕没後685年御朱印でした。
二条為冬鄕没後685年通常御朱印
二条為冬鄕没後685年疫病退散御朱印
初参拝です。
土日のみで更に日付指定で御朱印頒布されていたようですが、今は土日ならば御朱印が頂けるようです。
7月8月限定の御朱印を頂戴しました😊
社務所裏手、駐車場に新しく安置されたという子育て地蔵尊の御朱印も始められたそうです。
ミニ御朱印も頂戴しました😊
誕生日御朱印もあったのですが、誕生日の1週間前までの受付だそうで今回は頂けませんでした😢
社殿
♡形の紫陽花
狛犬
マスクしてました😆
狛犬
小さい狛犬さんもマスクしてます🤣
南部風鈴
御朱印
限定御朱印
子育て地蔵尊
御朱印
ミニ御朱印
静岡県のおすすめ3選🎌
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