ほうげんじ|浄土宗|米宮山
法源寺のお参りの記録一覧
【完成】法然は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人とも。
富士横道観音霊場の第26番札所にもなっています
浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
法然上人 (幼名を勢至丸)
法然(ほうねん)長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧です。
比叡山で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれました。
山門(入り口になります)いまから参拝します。
山門右の天保14年の名号塔。
富士横道観音霊場の第26番札所にもなっています
見事な山門の組物・彫刻
山門から本堂をのぞみます。
山門からみた左側、綺麗に整備された枯れ山水の庭園。
伝承によると、鎌倉光明寺第8世祐崇が開創。年月は資料によって差異があり(※)、応永元年(1394)、明応元年(1492)などさまざま。その後、無住時代を経て天正年間(1573~91)、当地に移住した武田勝頼家臣の高田長門守2代目・高田六兵衛(糸屋七郎右衛門詮利)が檀縁をむすび、現在地に移転再建。さらに同じく有力檀徒だった小楠氏が、僧澄誉をまねいて寺観を整えた。
山門からみた右側、無縁塔と六地蔵さん。
江戸期は除地3石7斗7升を有したが、
文政3年(1820)1月8日に火災、嘉永元年(1848)4月30日には落雷で焼失、そのつど再建された
境内風景 ・和順観音様
お参り後に振り返ったときに見える景色です。中央に山門
本堂の扁額さん (米宮山)
山号は米之宮浅間神社の東側にあったので「米宮山」と伝わっています、
今は米之宮浅間神社から約300m南方に位置しています。
本堂から見た右側(庭園風景)
本堂から見た左側
勢至丸が9歳のとき父・時国が夜襲され、不意討ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を残します。
「汝さらに敵をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨をむすべばそのあだ世々に尽きがたし。
早く俗をのがれ家を出て、我が菩提を弔い、みづからが解脱を求めよ」
この言葉に従い勢至丸は菩提寺で修学し、その後15歳(一説には13歳)で比叡山に登って剃髪受戒、天台の学問を修めます。
境内風景・勢至丸..
久安6年(1150)18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空(ほうねんぼうげんくう)の名を授けられました。
叡空のもとで勉学に励んだ法然上人は「智恵第一の法然房」と評されるほどになり、以後、遁世(とんせい)の求道生活に入ります。
境内風景・月影 句碑
法源寺に咲いていた花
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