ひのみさきじんじゃ
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日御碕神社ではいただけません
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日御碕神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年10月12日(土)
参拝:2024年9月吉日
島根県1泊2日旅。出雲編夕刻です。
出雲の大社町では最も日本海に飛び出た部分になります。
途中に気になる神社がいくつもあったのですが すでに夕刻のために目をつぶりました。
駐車場に車を停め 歩いて1分ほどです。
すぐそばに漁港があり 集落になっていました。
その集落の半分近くが日御碕神社関係の土地だと思いました。
境内に入ると目の前に拝殿があるのですが 実はこれは下の宮。
境内が下の宮と上の宮に分かれていたのです。
石段を少し上がると上の宮。どちらの拝殿も本殿も立派でした。
摂末社も多く 十九社はそれぞれの御祭神が書かれていました。
これだけ摂末社があり 立派な社殿を構えておられますので さぞかし名のある方が建立したのだろうと思い調べてみました。
寛永21年(1644年) 徳川家光の命により建立された由緒ある神社でした。
将軍の命ならそりゃそうだ。
由緒については
社伝によると 素盞鳴尊は出雲の国造りの後 熊成峰に登り 鎮まる地を求めて 柏葉を風で占うと隠ヶ丘に止まった。
そこで御子・天葺根命は御魂をその地で奉斎したと伝わり 隠ヶ丘(古墳)が現・社殿の裏側にある。
日沈宮は元は文島(現・経島)に鎮座し 天葺根命が文島にいたとき 天照大神が降臨し 「我天下の蒼生(国民)を恵まむ、汝速かに我を祀れ」との神勅によって奉斎したのが始まりと伝わる。
平安時代末期に後白河上皇が編纂した『梁塵秘抄』に「聖の住所(すみか)」として記される修験の聖地である。
神の宮(上の宮)は 現・社殿の背後にある隠ヶ丘に鎮座していたが 安寧天皇13年(紀元前536年)に 勅命により現在地へ遷座し 日沈宮(下の宮)は 経島(日置島)に鎮座していたが 天暦2年(948年)に村上天皇の勅命により現在地に遷座したと伝わる。
とありました。
出雲の大社町では最も日本海に飛び出た部分になります。
途中に気になる神社がいくつもあったのですが すでに夕刻のために目をつぶりました。
駐車場に車を停め 歩いて1分ほどです。
すぐそばに漁港があり 集落になっていました。
その集落の半分近くが日御碕神社関係の土地だと思いました。
境内に入ると目の前に拝殿があるのですが 実はこれは下の宮。
境内が下の宮と上の宮に分かれていたのです。
石段を少し上がると上の宮。どちらの拝殿も本殿も立派でした。
摂末社も多く 十九社はそれぞれの御祭神が書かれていました。
これだけ摂末社があり 立派な社殿を構えておられますので さぞかし名のある方が建立したのだろうと思い調べてみました。
寛永21年(1644年) 徳川家光の命により建立された由緒ある神社でした。
将軍の命ならそりゃそうだ。
由緒については
社伝によると 素盞鳴尊は出雲の国造りの後 熊成峰に登り 鎮まる地を求めて 柏葉を風で占うと隠ヶ丘に止まった。
そこで御子・天葺根命は御魂をその地で奉斎したと伝わり 隠ヶ丘(古墳)が現・社殿の裏側にある。
日沈宮は元は文島(現・経島)に鎮座し 天葺根命が文島にいたとき 天照大神が降臨し 「我天下の蒼生(国民)を恵まむ、汝速かに我を祀れ」との神勅によって奉斎したのが始まりと伝わる。
平安時代末期に後白河上皇が編纂した『梁塵秘抄』に「聖の住所(すみか)」として記される修験の聖地である。
神の宮(上の宮)は 現・社殿の背後にある隠ヶ丘に鎮座していたが 安寧天皇13年(紀元前536年)に 勅命により現在地へ遷座し 日沈宮(下の宮)は 経島(日置島)に鎮座していたが 天暦2年(948年)に村上天皇の勅命により現在地に遷座したと伝わる。
とありました。
正面鳥居 二の鳥居になると思います
レリーフ
由緒書
社務所
手水舎
楼門
石柱
木製です
下の宮 拝殿
十九社
御祭神表記
宝庫
上の宮 拝殿
上の宮 本殿
稲荷神社鳥居
蛭児社
下の宮 拝殿横から
下の宮 本殿
韓國神社
下の宮 禊所
宗像神社
一の鳥居海向き
海から
社殿横から
祖霊社
すてき
投稿者のプロフィール
くるくるきよせん2021投稿
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