天台宗
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日本遺産認定 慈眼寺さまの初観音講に参拝しました。
天台宗 住吉山<スミヨシザン> 興福院<コウフクイン> 慈眼寺
「近江水の宝」
湖東三十三ヶ所霊場第四番札所
概要
航海安全の秘仏をまつる寺院
慈眼寺本尊の秘仏・「帆柱観音」<ホバシラカンノン>
慈眼寺は中山道沿いの、古い民家が立ち並ぶ吉身の町中にひっそりと堂舎を構えています。
<慈眼寺の創建と帆柱観音>
慈眼寺の縁起によると、本尊として安置される秘仏の十一面観音像「帆柱観音」は伝教大師の自作と伝えられています。その由来は次のとおりです。
伝教大師最澄(767-822)が、延暦23年(804)、最澄は天台法華宗の修学のため唐へ留学し、翌年、多くの経典を携えて船で唐からの帰国の際、船が嵐に襲われた。海上で風雨が吹きすさび、波も激しく荒立った。船体は大きく傾き、帆柱も折れて今にも船が沈まんとした時、最澄が十一面観音に祈りをささげると、尊像が海上に現れ、風波が平穏となって無事難を逃れることができた。観音菩薩に救われた最澄は帰国後、航海安全の結縁として、折れた船の帆柱で海上に現れた十一面観音像を自ら刻み、帆柱観音と名付けた、と伝えられています。その危機を救ったことから、航海安全にご利益のある仏としてあつい信仰を受けるようになりました。さらに、同寺に安置される薬師如来像も海の神である住吉神との関係が指摘されており、水(海)との深いつながりを想起させます。
そして帆柱観音像とともに小堂を建立し、寺名を慈眼寺としました。その後、延暦寺焼き討ちの際に、伽藍も兵火にかかって焼失したが、江戸時代に明神のお告げによって再建されたという。
江戸時代の享保8年(1723)から19年(1734)に編纂された『近江輿地志略』によると、当時、慈眼寺には帆柱観音を安置する堂のほかに、薬師堂、如意輪堂、地蔵堂などの諸堂が存在していたと伝えられています。
<木造薬師如来坐像と本尊修理の記録>
木造薬師如来像は、境内の薬師堂に脇侍の日光•月光菩薩像(鎌倉時代中期頃)とともに安置されていました。像高145.4㎝の坐像で、ヒノキの一木を前後に割り、内部を刳りぬいた後、再び矧ぎ合わせたいわゆる一木割矧造で仕上げられています。作風から平安時代末期から鎌倉時代初期の制作と推定されています。なお、慈眼寺は近隣に所在する馬路石邊<ウマジイソベ>神社や住吉神社の神の本地仏<ホンジブツ>(神の真の姿としてまつられた仏)だったという説があります。
薬師如来像は近年、損傷が目立つようになったため、平成18年(2006)、保存修復が行なわれました。その結果、表面を厚く覆っていた漆箔が除去されて建立当時の姿に戻され、素朴ながらも凛々しい表情がよみがえりました。このことは話題になり、新聞等にも大きくとりあげられました。
修理の過程で明らかになったことは、
(1)これまでに三度の修理がおこなわれた。
①造像の当初から、像を構成する材には損傷
があり、何らかの由緒ある木材を用いて掘
り出されたとみられる。(平安時代末期〜
鎌倉時代初期)
②造像からまもない時期に、部分的な修理がお
こなわれた。(鎌倉時代)
③素地の上に布貼り漆箔をほどこすなど、部分
的な修理がおこなわれた。(室町時代か)
④脚部、台座、光背などが新たに補われ、再度
、漆箔がほどこされた。(江戸時代)
(2)造像当初は素地仕上げの像であった。
本像は、造像時、木の聖性を意識していたと
考えられ、当初は木の表面そのままの仕上げ
とし、顔にのみ彩色をほどこしていた。現在
残されている眉、髭、瞳の墨描きや唇の朱色
は制作当初のものである。また、過去の修理
に際して、顎の輪郭が変えられ、目鼻の造形
にも大きな変更が加えられた。しかし造像当
初の表情は、より精悍で厳しさに満ちていた
ことが判明した。
文化財など
本尊十一面観音(帆柱観音)(弘仁元年(810年))
木造薬師如来像(平安時代)[市指定文化財]
木造日光菩薩(江戸時代)[市指定文化財]
木造月光菩薩(江戸時代)[市指定文化財]
鬼瓦(桃山時代)[市指定文化財]
※「帆柱観音」は非公開です。
(慈眼寺さまより頂いた資料及び守山市HP等を参考、引用させていただきました)
既にご参拝、1番にご投稿されたnomutenさまにアドバイスを頂き、いつか必ず参拝したいと願っておりました慈眼寺さまに、1月17日の初観音に参拝して来ました。車のナビで行ったものの、お寺まで後少しの所で、道路工事のため通行止め😓
何度ナビを設定し直しても、やはり住宅街の中ゆえ、その道しか無く、仕方なく離れた場所に止めて10分ほど歩いて向かいました。
道に迷ったことで、読経半ば😓からの参加となり、堂内は焼香の煙でモクモクでした。☺️
ご住職さま(栗東市 観音寺よりご出張)の素晴らしいお声に癒されながら、堂内正面に秘仏御本尊様の御前立ちの観音様はもとより、左側脇間には、このお堂目一杯に大きい薬師如来坐像さま、両脇に日光、月光菩薩さまがいらっしゃいました。
あまりの神々しさに釘付け😳となり、感動で心が震えました。
nomutenさまのご投稿で、素晴らしい仏さまだと予習はしていたものの、目の当たりに致しますと、その感動は言葉では言い表せないほどでした。🥹🙏🏻
読経後、ご住職さまからの法話をお分け頂き、コロナ禍が一日も早く収束し、自分以外の人さまに、思いやりの心、祈りの心を持つことの大切さをお話下さいました。😊🙏🏻
このお寺は、天台宗山門派比叡山正覚寺末寺の無檀家寺です。
地域の方々の厚い信仰と、並々ならぬ御尽力で今日も大切に、綺麗に護持されています。
その御苦労を思いますと、本当に頭が下がります。🙇🏻♀️この先も、どうか素晴らしい仏さまを、末永く…と、願います。🙏🏻
来月の法要には夫を伴い、素晴らしい仏さま、ご住職さま、自治会の方々にご縁を頂きたく願います。
参拝の機会を下さいましたnomutenさまに、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
😊🙏🏻
秘仏 十一面観音像(帆柱観音)の御前立ち観音像さま
表通りに立つ寺号標
御由緒書き
文末に「江戸期以来風雨に晒され崩壊寸前であった本堂を、地元吉身の住民が中心になって浄財を募り、新しく再建して落慶を迎えました。
平成二十一年(2009)十一月一日」
とあります。無檀家寺であるため、とても御苦労があったと思われ、胸が熱くなります。
入り口掲示板
お地蔵さま
お地蔵さま 説明書き
岡田逸治郎の碑
説明書き
観音さま(聖観音菩薩)
説明書き
鐘楼
梵鐘は太平洋戦争時に供出となり、今は小さな釣鐘となっています🥲
慈眼寺指定文化財の説明書き
日本遺産の説明書き
本堂
本堂の扁額
本堂屋根の鬼瓦
本堂入り口にある、昔の田舎の風景のジオラマ
本堂内
御本尊 秘仏十一面観音菩薩立像(御厨子内)御前立ち観音様
不動明王像
不動様は、左手に縄を持ち、悪い心をつかまえるためです。右手の長い剣は、悪い心を倒すためのものです。背後の炎は、悩み苦しみを焼き尽くすためです。厳しいお顔で、迷いの道に、のめり込まないようにして下さるのです。
この不動明王様は、比叡山飯室谷・不動堂において、十二年間、北嶺大行満 総一 酒井雄哉大阿闍梨様から護摩・加持祈祷をお受けられました。
聖観世音菩薩立像
観音様は、手が千本、頭が11個、頭に馬が載っている、さまざまな観音様がおられます。竜や鳥にさえも、どんなお姿にも変身され、人々が助けを求める声を聞き、もれなく救い出して下さいます。心優しい観音様です。
この観音様は、人間国宝・北村西望先生(1884〜1987)作です。長崎平和祈念像の作者でもあります。
薬師如来と日光、月光菩薩の三尊像は、かつては境内の薬師堂に安置されていた。薬師如来は薬壺を持ち、病気を治す仏として広く信仰された。
薬師如来坐像は施無畏印を結び、
方形の台座に座す。寄木作りで、平安時代後期の作である。両脇に日光菩薩、月光菩薩を従え、本来は、十二神将が守護する。
脇侍の日光・月光菩薩立像は、いずれも宝冠を戴き、手には蓮華を持つ寄木作りで江戸時代の作である。
平成19年の修復の時に、薬師如来坐像は、鎌倉、室町、江戸時代に修理をしていたことや、当初は素地仕上げであったが、後に、彩色や漆箔が施されていたことがわかり、もとの状態に復元修理をした。
右側 日光菩薩立像 右手に金の蓮華を持つ
左側 月光菩薩立像 銀色の蓮華を持つ
十二神将の一つ「毘羯羅」(ビカラ)像
毘羯羅像の説明書き
鬼瓦は、文禄3年(1594)の銘がある。湖南の寺社の多くが室町から戦国期にかけて罹災・倒壊しているため、中世の銘を持つ伝世品の鬼瓦は県内には殆ど残っていない。制作年代が明らかな中世の瓦として貴重である。
今一度、薬師如来坐像さま
ふくよかで優しいお顔だち。温かい眼差しで、見つめて下さっています。🙏🏻
名称 | 慈眼寺 |
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御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 077-582-4284 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
宗旨・宗派 | 天台宗 |
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