せきせみまるじんじゃしもしゃ
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関蝉丸神社下社ではいただけません
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関蝉丸神社下社のお参りの記録(2回目)
投稿日:2022年12月04日(日)
参拝:2022年11月吉日
(編集途中)
蝉丸神社下社⛩さまに参拝しました。
【主祭神】
下社 豊玉姫命
【本殿・境内建物】
〔本殿〕上社 一間社流造正面千鳥破風唐破風付
間口一間二尺 奥行一間三尺
下社 一間社流造 間口一間三尺 奥行二間
〔拝殿〕上社 入母屋造 間口二間二尺 奥行二間二尺
下社 入母屋造 間口二間三尺 奥行二間三尺
〔その他〕上社 神輿庫 手水舎 社務所
下社 内幣殿 神楽殿 神輿庫 手水舎 社務所
昭和五年郷社に列格した。
【境内社(摂社・末社)】
下社 貴船神社 中臣稲荷神社 大神宮神 関清水神社
天満宮 (境外) 貴船神社
<御由緒>
関蝉丸神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ〈髪の毛のこと〉)の祖神ともいわれている。その人物像は不詳であるが、醍醐天皇の第四皇子、あるいは宇多天皇の皇子・敦実親王の雑色などとも伝えられ、琵琶の名器・無明を愛用していたといわれている。生没年も不詳ながら、旧暦の五月二十四日は「蝉丸忌」とされている。また、下社の祭神・豊玉姫命は、福を招き出世を約束する女神で、縁結び・安産・子孫繁栄の神として敬われている。なお、海神の娘である豊玉姫命は水霊信仰とも深く関係している。
社記によると、当社の創祀は、嵯峨天皇の弘仁十三年(八二二)と伝えられている。小野岑守が旅人の守護神である猿田彦命を山上の上社に、豊玉姫命を麓の下社にお祀りしたのが始まりとされている。鎮座する逢坂山は京都と滋賀の境に当り、琵琶湖と京都・畿内を結ぶ交通の要所として栄えていた。この立地から、国境神・坂神・手向神(道祖神)、さらに逢坂の関の守護神としても崇敬されていた。また、京の都に悪病が流行らないように疫神祭が斎行されていたという。貞観十七年(八七六)には従五位下の神階が授けられ、六国史に記載がある国史見在社である。
平安時代中期になると、琵琶の名手で、後撰集の歌人でもある蝉丸が鎮座地の逢坂山に住むようになり、没後に上・下両社へ合祀された。合祀は天慶九年(九四六)とも平安時代末ともいわれている。その後、蝉丸伝承は時代と共に全国各地へ広まり、天禄二年(九七一)に綸旨が下賜されると、歌舞音曲の神として信仰されるようになり、次第に音曲を始めとする諸芸に関係する人々の信仰が厚くなった。
江戸時代には諸国の説教者(雑芸人)を統轄し、免許を受ける人々が全国的規模で増加した。昭和五年(一九三〇)には郷社に列格した。
蝉丸に関する様々な伝承は『平家物語』などの文献に登場する。和歌・管弦の名手であった鴨長明の『無名抄』にも当社に関する記述が見られる。また、『今昔物語』巻第二四第二三話には管弦の名人であった源博雅が、逢坂の関に蝉丸という琵琶の名手が住むとの噂を聞き、当時蝉丸だけが伝えていた「流泉」「啄木」という秘曲の伝授を乞うため逢坂山に通い、三年の月日が流れた八月十五日、ようやく秘曲を聞くことができたという逸話は有名である。
蝉丸といえば、『小倉百人一首』のカルタに描かれる坊主姿が有名である。逢坂の庵より往来の人を見て「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも 逢坂の関」という和歌を詠んだ(百人一首では 「行くも帰るも分かれては」 となっている)。蝉丸の和歌は、上記のものが『後撰和歌集』に収録されているほか、『新古今和歌集』『続古今和歌集』に収録されている三首を含め、計四首が勅撰和歌集に採録されている。
能の『蝉丸』(四番目物の狂女物)という曲や近松門左衛門作の人形浄瑠璃の『蝉丸』も有名である。
【神話・伝承】
〜日本にあった射日神話〜
垂仁天皇の(第一一代)のとき、九つの日輪が出たことがあった。そこで天文博士を召して占わせてみると、北のはずれのものは本物の日輪だが、南に並んでいる日輪はカラスが化けたものである。このカラスは地上から八町(872m)上にある。射手に勅して射させるか、さもないと天下の物の怪となるだろうと奏上した。。これが日本における梯子のはじめである。
時は垂仁帝一八年二月一〇日の辰刻(午前8時)であった。天皇もこれを御覧になるために、武蔵国に行幸した。こうして八人の射手が思い思いに神を念じて矢を放つと、八筋の矢は八つの太陽に当って、筑紫の日向国宮崎郡に落ちた。
それからひゅうがとは日に向うと書くのである。その後、天皇は難波の都にお帰りになったが、ほどなくして八つの日輪が献上された。長さ一丈五尺(4.5m)のカラスで尾幅は一丈六尺(4.8m)嘴は三尺八寸(1.14m)あった。そのカラスの首を切らせてみると、二寸(6cm)四方の玉が一つずつ入っており、その中にはどれも一寸六分(4.8cm)の釈迦像が一体入っていた。そこで八つの玉を一つは尾張国熱田の社に、一つは伊勢の外宮に、一つは紀伊国日前宮に、一つは信濃国諏訪社に、一つは豊前国宇佐八幡宮に、一つは逢坂関明神に、一つは摂津国住吉社に、一つは帝の御宝蔵に収められた。例の射手たちは坂東八力国を賜り、天文博士にも若干の所領が与えられたという。
参考文献:『広益俗説弁』正徳五年(1715) 幡竜子(肥後の学者)
文徳天皇 天安元年(857) 逢阪の関を開設、鎮護神として坂神を関明神と称す。
圓融天皇 天禄二年(971) 当社を音曲芸道祖神とし、明治維新まで免許状を下付。
朱雀天皇 天慶六年(943) 蝉丸霊を二所に合祈、関大明神蝉丸宮と称す。
正徳三年(1713) 二品覚尊親王奉幣御参拝
享保十七年(1732) 実相院宮義周親王奉幣御参拝
(蝉丸神社HPより)
御由緒にもありますが、こちらの関蝉丸神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ〈髪の毛のこと〉)の祖神ともいわれている。とのこと。
京阪電車上栄駅より歩いて5〜6分くらいの、京都と滋賀を結ぶ逢坂峠の途中にあります。
京阪電車の線路脇にあり、専用の踏み切りを渡ってから境内に入ることになります。
関蝉丸神社さまは、逢坂峠沿いに三社あります。
京都に近い方から蝉丸神社(京阪電車 大谷駅そば)
その次に関蝉丸神社上社、そして一番京都から離れている、こちら関蝉丸神社下社の三社からなります。
前回参拝した時は、時間の都合上、こちら下社だけの参拝でしたが、今日は、下社、上社、そして蝉丸神社さまと、三社参拝致しました。
10月30日の大祭には、献茶をはじめ、能楽奉納や舞、JAZZ、琵琶演奏、ギター弾き語りなど、数々の奉祝奉納が行わる予定でしたが、私は参拝出来ずに残念でした。HPで確認しましたが、まだ掲載されておりませんが、他の方のネット投稿で無事に開催されたことがわかりました。
素晴らしい大祭であったようです。
由緒ある素晴らしい神社さまでしたが、至る所が痛々しいほどに壊れており、残念で勿体ない印象でした。
HPでは、クラウドファインディングを呼びかけて、神社の維持と再興を目指しておられます。
詳しくはHPをご覧下さい。😊🙏🏻
蝉丸神社下社⛩さまに参拝しました。
【主祭神】
下社 豊玉姫命
【本殿・境内建物】
〔本殿〕上社 一間社流造正面千鳥破風唐破風付
間口一間二尺 奥行一間三尺
下社 一間社流造 間口一間三尺 奥行二間
〔拝殿〕上社 入母屋造 間口二間二尺 奥行二間二尺
下社 入母屋造 間口二間三尺 奥行二間三尺
〔その他〕上社 神輿庫 手水舎 社務所
下社 内幣殿 神楽殿 神輿庫 手水舎 社務所
昭和五年郷社に列格した。
【境内社(摂社・末社)】
下社 貴船神社 中臣稲荷神社 大神宮神 関清水神社
天満宮 (境外) 貴船神社
<御由緒>
関蝉丸神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ〈髪の毛のこと〉)の祖神ともいわれている。その人物像は不詳であるが、醍醐天皇の第四皇子、あるいは宇多天皇の皇子・敦実親王の雑色などとも伝えられ、琵琶の名器・無明を愛用していたといわれている。生没年も不詳ながら、旧暦の五月二十四日は「蝉丸忌」とされている。また、下社の祭神・豊玉姫命は、福を招き出世を約束する女神で、縁結び・安産・子孫繁栄の神として敬われている。なお、海神の娘である豊玉姫命は水霊信仰とも深く関係している。
社記によると、当社の創祀は、嵯峨天皇の弘仁十三年(八二二)と伝えられている。小野岑守が旅人の守護神である猿田彦命を山上の上社に、豊玉姫命を麓の下社にお祀りしたのが始まりとされている。鎮座する逢坂山は京都と滋賀の境に当り、琵琶湖と京都・畿内を結ぶ交通の要所として栄えていた。この立地から、国境神・坂神・手向神(道祖神)、さらに逢坂の関の守護神としても崇敬されていた。また、京の都に悪病が流行らないように疫神祭が斎行されていたという。貞観十七年(八七六)には従五位下の神階が授けられ、六国史に記載がある国史見在社である。
平安時代中期になると、琵琶の名手で、後撰集の歌人でもある蝉丸が鎮座地の逢坂山に住むようになり、没後に上・下両社へ合祀された。合祀は天慶九年(九四六)とも平安時代末ともいわれている。その後、蝉丸伝承は時代と共に全国各地へ広まり、天禄二年(九七一)に綸旨が下賜されると、歌舞音曲の神として信仰されるようになり、次第に音曲を始めとする諸芸に関係する人々の信仰が厚くなった。
江戸時代には諸国の説教者(雑芸人)を統轄し、免許を受ける人々が全国的規模で増加した。昭和五年(一九三〇)には郷社に列格した。
蝉丸に関する様々な伝承は『平家物語』などの文献に登場する。和歌・管弦の名手であった鴨長明の『無名抄』にも当社に関する記述が見られる。また、『今昔物語』巻第二四第二三話には管弦の名人であった源博雅が、逢坂の関に蝉丸という琵琶の名手が住むとの噂を聞き、当時蝉丸だけが伝えていた「流泉」「啄木」という秘曲の伝授を乞うため逢坂山に通い、三年の月日が流れた八月十五日、ようやく秘曲を聞くことができたという逸話は有名である。
蝉丸といえば、『小倉百人一首』のカルタに描かれる坊主姿が有名である。逢坂の庵より往来の人を見て「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも 逢坂の関」という和歌を詠んだ(百人一首では 「行くも帰るも分かれては」 となっている)。蝉丸の和歌は、上記のものが『後撰和歌集』に収録されているほか、『新古今和歌集』『続古今和歌集』に収録されている三首を含め、計四首が勅撰和歌集に採録されている。
能の『蝉丸』(四番目物の狂女物)という曲や近松門左衛門作の人形浄瑠璃の『蝉丸』も有名である。
【神話・伝承】
〜日本にあった射日神話〜
垂仁天皇の(第一一代)のとき、九つの日輪が出たことがあった。そこで天文博士を召して占わせてみると、北のはずれのものは本物の日輪だが、南に並んでいる日輪はカラスが化けたものである。このカラスは地上から八町(872m)上にある。射手に勅して射させるか、さもないと天下の物の怪となるだろうと奏上した。。これが日本における梯子のはじめである。
時は垂仁帝一八年二月一〇日の辰刻(午前8時)であった。天皇もこれを御覧になるために、武蔵国に行幸した。こうして八人の射手が思い思いに神を念じて矢を放つと、八筋の矢は八つの太陽に当って、筑紫の日向国宮崎郡に落ちた。
それからひゅうがとは日に向うと書くのである。その後、天皇は難波の都にお帰りになったが、ほどなくして八つの日輪が献上された。長さ一丈五尺(4.5m)のカラスで尾幅は一丈六尺(4.8m)嘴は三尺八寸(1.14m)あった。そのカラスの首を切らせてみると、二寸(6cm)四方の玉が一つずつ入っており、その中にはどれも一寸六分(4.8cm)の釈迦像が一体入っていた。そこで八つの玉を一つは尾張国熱田の社に、一つは伊勢の外宮に、一つは紀伊国日前宮に、一つは信濃国諏訪社に、一つは豊前国宇佐八幡宮に、一つは逢坂関明神に、一つは摂津国住吉社に、一つは帝の御宝蔵に収められた。例の射手たちは坂東八力国を賜り、天文博士にも若干の所領が与えられたという。
参考文献:『広益俗説弁』正徳五年(1715) 幡竜子(肥後の学者)
文徳天皇 天安元年(857) 逢阪の関を開設、鎮護神として坂神を関明神と称す。
圓融天皇 天禄二年(971) 当社を音曲芸道祖神とし、明治維新まで免許状を下付。
朱雀天皇 天慶六年(943) 蝉丸霊を二所に合祈、関大明神蝉丸宮と称す。
正徳三年(1713) 二品覚尊親王奉幣御参拝
享保十七年(1732) 実相院宮義周親王奉幣御参拝
(蝉丸神社HPより)
御由緒にもありますが、こちらの関蝉丸神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ〈髪の毛のこと〉)の祖神ともいわれている。とのこと。
京阪電車上栄駅より歩いて5〜6分くらいの、京都と滋賀を結ぶ逢坂峠の途中にあります。
京阪電車の線路脇にあり、専用の踏み切りを渡ってから境内に入ることになります。
関蝉丸神社さまは、逢坂峠沿いに三社あります。
京都に近い方から蝉丸神社(京阪電車 大谷駅そば)
その次に関蝉丸神社上社、そして一番京都から離れている、こちら関蝉丸神社下社の三社からなります。
前回参拝した時は、時間の都合上、こちら下社だけの参拝でしたが、今日は、下社、上社、そして蝉丸神社さまと、三社参拝致しました。
10月30日の大祭には、献茶をはじめ、能楽奉納や舞、JAZZ、琵琶演奏、ギター弾き語りなど、数々の奉祝奉納が行わる予定でしたが、私は参拝出来ずに残念でした。HPで確認しましたが、まだ掲載されておりませんが、他の方のネット投稿で無事に開催されたことがわかりました。
素晴らしい大祭であったようです。
由緒ある素晴らしい神社さまでしたが、至る所が痛々しいほどに壊れており、残念で勿体ない印象でした。
HPでは、クラウドファインディングを呼びかけて、神社の維持と再興を目指しておられます。
詳しくはHPをご覧下さい。😊🙏🏻
すてき
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ホトカミ見ました! で広がるご縁
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「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。