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楽しみ方長等神社の御由緒・歴史
ご祭神 | 《主》須佐之男大神,大山咋大神,宇佐若宮下照姫大神,八幡大神,地主大神 | |
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創建時代 | 667年(天智天皇の御宇六年) | |
ご由緒 | 天智天皇御世、都の鎮護として長等山岩倉の霊地に須佐之御男大神を崇祀する。天智天皇8年5月5日、宇治の山科より還行の時弓と矢を奉納された。皇子大友与多王、5月5日を祭礼日と定め給ひ、今にこの日を例祭日としている。清和天皇貞観2年、園城寺の開祖智証大師が日吉大神を勧請合祀され、園城寺の守護神とした。清和天皇の時初めて官幣を受け、社殿修復等本宮日吉大社に準じて上奏を経る事とせられた。後冷泉天皇の天喜二年に明尊大僧正が山上の社を現在の山麓の勧請し新宮社と称し、その所を神出と名ずけられた。白河天皇永保元年、官符を下して大津の住人をして日吉祭を新宮社で勤行せしめ、寺門の衆徒もこの祭に加勢した。爾来、当社は日吉本宮と対比し12の廻廊もあり湖南の大社として隆盛を極めたが、山門・寺門の衆徒の闘争により、当社も度々の兵火に罹る。鎌倉幕府が宇津宮蓮生に命じて、本殿・拝殿・楼門等を再興したが再び灰燼となる。
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歴史 | 歴史[編集] 天智天皇が天智天皇6年(667年)に近江大津宮に遷都した際、長等山の岩座谷に建速須佐之男大神を祀ったのが始まりである。貞観2年(860年)2月、前年に園城寺初代長吏に就任した円珍が、園城寺の鎮守として当社に山王権現を合わせて祀り、園城寺の鎮守社とし、社名を延暦寺の鎮守社である日吉大社に対応して新日吉社、またの名を新宮社とした。 天喜2年(1054年)4月、庶民も参詣できるようにと長等山上から現在地に遷座する。 南北朝時代の建武3年(1336年)に戦乱に巻き込まれて社殿が焼失するが、暦応3年(1340年)に室町幕府将軍足利尊氏により再建される。 明治時代に入り、神仏分離の流れ...Wikipediaで続きを読む | |
引用元情報 | 「長等神社」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E9%95%B7%E7%AD%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=102851498 |
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