しもしんがしひえじんじゃ
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楽しみ方下新河岸日枝神社のお参りの記録一覧

川越市下新河岸に鎮座しています。
この辺りは川越城主松平信綱により設けられた河岸場として繁栄した地域になります。
その河岸場が開かれる以前は、小田原北条氏の家臣・諏訪右馬亮(すわうまのすけ)により土地開発され、当社はそれに伴い開基された『天台宗蓮華院』の境内社であったと思われます。
現在、境内には日枝神社と観音堂が並んで座し、一段下がった所に上新河岸の村社であった厳島神社が明治40年に合祀されていて神仏混淆の様子をうかがえます。
社殿裏には新河岸川が流れていて、境内から階段を降りて舟運遺構を見ることができます。

社号標と社務所。神社は社務所の奥にあります。


仁王像陰刻

仁王像陰刻


『手洗い石』
文化2年(1805)7月、船問屋の望月善兵衛が奉納しました。卍印と三つ鱗が彫られている。

『馬頭尊』(手前の石碑)
かつて馬まちと呼ばれた縁日が盛んでした。舟運に関係する運送馬や付近の農耕馬などがこの日、新河岸の観音様に馬方ともども参詣して1年間の無事息災を祈願したといいます。

『観音堂』
勧請年月は不明ですが、木ノ目長者といわれた大河内某が、娘の病気平癒を祈願して建立したのが始まりとされます。現在のお堂は明治3年4月22日下新河岸の大火後に再建されたもの。


馬頭観音は東松山上岡の妙安寺の御分霊になるそうです。

観世音由来

正観世音菩薩と刻まれていました。

新編武蔵風土記稿によると、この辺りに諏訪右馬亮が寺尾城という居館を構えていたとされ、秀吉の小田原攻めまで川越城の支城として活躍していたそうです。
付近には、城山・並木・猫山(根小屋)などの関係遺跡、地名が今でも残っているそうです。

日枝神社

日枝神社の手水舎





境内社
『愛宕社と天満宮』



金比羅社。屋根にカマキリがくっついてた。

日枝神社の社殿左側、一段下りたところに厳島神社があります。ゲートボール場と一体になっていてこの日はサッカー少年がいました。

日枝神社や観音堂と向きが逆で、新河岸川の方を向いて鎮座されています。



弁才天

厳島神社の末社『水神社』
川越城主の寄進。上新河岸に鎮座していと時は社前に清水が湧き出ていて、城主の茶の湯の水として使用されていたといいます。

力石

寛政の頃と思われる石碑類が多数ありました。



厳島神社から見た日枝神社

裏手から階段を降りて川岸へ行けます。

新河岸川


観音堂の横に自治会館がありその横に記念碑がありました。

『石地蔵』
木ノ目村の大河内某の分家である杉山氏が寛政元年に先祖の菩提を弔って造立されたもの。

旭橋付近からの遠景。
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