しんめいじんじゃ
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楽しみ方神明神社のお参りの記録一覧

1社だけ残した山田八幡神社開運14社詣
鎮座地は川越夜戦の激戦地、東明寺のすぐそば、天文年間、北条氏と上杉連合軍との戦『河越夜戦』に際して、神明社別当某が御神体を担いで逃げようとしたが、三尺ばかりの石のため重くて持てず、仕方なく土中に埋めて逃げ去りました。その後兵乱も収まり平和になった頃、別当某の孫の修験者大宝院は川越に戻り、御神体を探しあてて、神明社を再建したといいます。交差点の角にある小さな神社で、観光客も立ち寄りませんが、街中に鎮座しているので寂しい感じはしません。江戸前期の手水鉢も今なお残っています。が水は張っていないので現役ではないのが残念。

享保十二丁未年(1727)奉納の鳥居



手水舎

天和三癸亥年(1683)奉納の手水鉢


嘉永二己酉年(1849)奉納の狛犬



拝殿

幣殿

本殿


境内社 昭和五十六年(1981)建立の稲荷神社


石祠


石碑

旧住所が川越市小久保だったため、小久保神明神社ともいいます。ご祭神は天照大神と豊受姫命の2柱で、内陣に雨宝童子像と石棒を安置しています。山田八幡神社が兼務していて、御朱印もそちらでいただけます。
川越の民話と伝説に当社にまつわる以下のようなお話があります。
『長禄元年(1457)太田道灌が川越城を築いたとき、西北の護り神として、江戸の芝にある神明神社を移築したものだという。この神社のご神体は石棒で、男根石だとか、あるいは伊勢神宮の「心の御柱」のようなものだともいう。
その後戦国時代に至り、天文13年(1544)川越合戦のとき、兵火にかかり社殿も類焼しまった。このとき別当が火災の中からご神体を運び出したが、三尺(約90cm)もある石棒なので、重くて安全な場所へ移すことができない。そこで、土の中に埋めて逃げたのである。
その後、江戸時代に至り、天下泰平の世の中になってから、別当の孫大宝院という修験が川越に来て、丸馬場(宮下町二丁目あたり)に住んでいたが、自分の先祖から言い伝えられてきた神明神社の旧蹟地を訪ね歩いたところ、東明寺橋のあたりに「神明山」という名前が残っていたのを見つけ出した。
しかし社殿は残っていなかった。きっとこの近所に違いないと、あちらこちら探し歩いてついに埋められたご神体を見つけ、掘り出すことができた。
大宝院はさっそく社殿を建立してご神体を祀り、丸馬場からもとの神明町へ移したのである。のちに長永山良学院となったという。』
(埼玉の民話と伝説 川越編/新井博編/有峰書店/1977.2より引用)
この日は午前中に神事があったらしく、境内や社殿内では氏子さん達が忙しなく作業されていたので、サッと参拝して神社を後にしました。なので写真も1枚だけです。また今度、御朱印をいただく際にお参りしたいです。

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