まんぎょうじ
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満行寺の日常(1回目)
投稿日:2019年10月09日(水)
新座市野寺にある満行寺
正式名称を八幡山阿弥陀院満行寺 瀧本坊と言います。
嘗ては十二天村(新座市中央公民館付近)
にあり、七堂伽藍が甍を連ね、鎮守八幡社以下三十余座の末社、及び
数多くの坊中、僧侶充満して念誦の声が絶えとなかったと伝わります。
幾多の星霜を経て、小田原北条氏の末に現在地に移り、
以後、周辺を野寺村と称するようになりました。
江戸時代は旗本、小野氏の菩提寺であり、
野寺八幡社、弁天社、石神氷川社の別当寺でした。
明治期に野寺八幡社、弁天社社地は近隣の社を
合祀し、武野神社となりました。
近世、栗原地区には「不動院・大学院・観行院」等、当山派の修験衆が
土着しており、農業の傍ら、里の人々に対し宗教活動を行っていました。
現在はこの里修験のうち勧行院の流れの方が、武野神社の宮司となっています。
『新編武蔵風土記』に見られる
七堂伽藍なりしとき用いた仏具数種も、
建治元年造る所の石仏も、阿弥陀堂も現在はありません。
明治期の廃仏毀釈により、大幅に境内地がなくなり
往時の繁栄は見られませんが『野寺の鐘』のお寺として、
様々な伝承の残る古刹になります。
令和四年五月二十八日、檀信徒の皆様のご協力を賜り、
約二百年ぶりに本堂が再建され、境内の整備がきれいになりました。
幼稚園を併設しており、境内はいつも賑やかな雰囲気です。
正式名称を八幡山阿弥陀院満行寺 瀧本坊と言います。
嘗ては十二天村(新座市中央公民館付近)
にあり、七堂伽藍が甍を連ね、鎮守八幡社以下三十余座の末社、及び
数多くの坊中、僧侶充満して念誦の声が絶えとなかったと伝わります。
幾多の星霜を経て、小田原北条氏の末に現在地に移り、
以後、周辺を野寺村と称するようになりました。
江戸時代は旗本、小野氏の菩提寺であり、
野寺八幡社、弁天社、石神氷川社の別当寺でした。
明治期に野寺八幡社、弁天社社地は近隣の社を
合祀し、武野神社となりました。
近世、栗原地区には「不動院・大学院・観行院」等、当山派の修験衆が
土着しており、農業の傍ら、里の人々に対し宗教活動を行っていました。
現在はこの里修験のうち勧行院の流れの方が、武野神社の宮司となっています。
『新編武蔵風土記』に見られる
七堂伽藍なりしとき用いた仏具数種も、
建治元年造る所の石仏も、阿弥陀堂も現在はありません。
明治期の廃仏毀釈により、大幅に境内地がなくなり
往時の繁栄は見られませんが『野寺の鐘』のお寺として、
様々な伝承の残る古刹になります。
令和四年五月二十八日、檀信徒の皆様のご協力を賜り、
約二百年ぶりに本堂が再建され、境内の整備がきれいになりました。
幼稚園を併設しており、境内はいつも賑やかな雰囲気です。
すてき
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