しみずはちまんぐう
清水八幡宮埼玉県 狭山市駅
24時間可能
駐車場 | 3台ほど駐車可。 | ||
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御朱印 | ありません | ||
限定 | - | ||
御朱印帳 | - | ありません |
国道16号線沿いの旧八丁の渡し跡に鎮座していて、八幡宮とありますがご祭神は源義仲(木曽義仲)の嫡男「源義高」になります。
義高は、頼朝の娘・大姫の婿という名目で人質として鎌倉に送られました。
父義仲が頼朝と対立し討たれたことにより、復讐を恐れた頼朝に謀殺の危機にさらされ鎌倉を脱出しました。
祖父の館や父を助けた畠山重能の館がある現在の嵐山町を目指しましたが、入間河原で追手に討ち果たされました。
義高の首は頼朝のもとへ運ばれましたが、体はその場に残されたため、入間川の里人が当地に埋葬し祀ったといいます。
義高の死を哀れんだ北条政子は、その後墓所を転じて神社とし、清水八幡として崇めました。朱色の玉垣が光彩をそえるほど立派だったといいます。
ところが、応永9年(1402)8月、暴風雨のため入間川が大洪水となり、社殿は押し流されてしまいました。これを悲しんだ郷民は事の由来を刻んだ石祠を造立し祭祀を続けたといいます。
それから八百余年近く経た現在も、この石祠を御神体とし祀られています。
宮司様が仰るに当時の入間川は今のように整備などがされておらず、渡ることは容易なことではなく、それで追手に追いつかれてしまったのだろうとのことでした。ましてや12歳の少年だったとは😢
『世間には武人を始め、高名な人を神社に祀る例は多いけれど、義仲の嫡男で頼朝の娘婿といいながら、わずか12歳でこの世を去った少年で、時の政権の保護を受けたこともない、名もなき若武者の祭祀が八百余年も連綿と続いている』
これは狭山市史に載っている言葉ですが、私もこの行為に少しでも慰められればと思いました。
鎌倉街道散策(狭山)6
【散策ルート】
狭山市駅〜①祇園白山神社〜②徳林寺〜③狭山八幡神社〜④慈眼寺〜⑤入間川諏訪神社〜⑥清水八幡神社〜⑦八丁渡し〜⑧影隠地蔵〜⑨信濃坂碑〜⑩今宿遺跡〜狭山市駅
入間川の新富士見橋と本富士見橋の間の国道16号線沿いにあり、源義高の終焉の地の看板がなければ気づかないと思われる。鳥居と小さな社殿があるだけ。
⑤清水八幡神社
狭山市入間川にある八幡神社。木曽義仲の嫡子源義高(清水冠者義高)が寿永3年に当地で頼朝の追手に討たれたのを悲しんだ、北条政子とその娘(源義高の妻女)が源義高の霊を祀るために、当地に祠を建てたといいます。
義経の悲劇と合わせて、清水義高と大姫の悲恋物語のために頼朝は嫌われている。このような恋物語は人々の心を慰めるものであった。
源義仲は頼朝と対立していた叔父の志田義広と新宮行家を庇護した事により、両者は武力衝突寸前となる。しかし義仲が11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、和議が成立した。義高は頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。
その後、義仲は平氏を破って入京するが、後白河法皇と対立する。頼朝は都に源範頼と源義経を代官とし、義仲追討軍を派遣した。そして、義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれた。
義仲が討たれ、義高の立場は悪化する。
頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を侍女達に囲ませ屋敷を抜け馬で鎌倉を脱出させた。
激怒した頼朝は義高を討ち取るよう命じた。義高は武蔵国で捕らえられ、入間河原で藤内光澄に討たれた。享年12才。
義高の残党が甲斐と信濃に隠れ、謀反を企てているとして信濃国に大規模な軍兵の派遣が行われた。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったことを怒り、光澄の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、光澄は晒し首にされた。
16号を川越方面へ、新富士見橋を渡る。途中入間川を見ると1つ目の『八丁の渡し』らしい場所が見える。
⑥八丁の渡し
鎌倉街道の入間川に『八丁の渡し』と呼ばれるところがある。大きな橋もなく人々は、川の浅瀬を探しながらの徒歩渡りしていた。
この『八丁の渡し』は、市内に2ケ所ある。その1つは、子ノ神さまを下り、本富士見橋周辺の中島辺りだとか、もう1つは奥富の前田、入間川堤防に建つ九頭龍大権現の石仏辺りから柏原へ渡る浅瀬です。
入間川を新富士見橋で渡った道路はしばらく行くと奥州道という交差点に出ます。 奥州に向かう鎌倉街道としては中道があるわけですが、鎌倉時代以前は奥州方面に行く道として上道を通り北武蔵のどこかで分岐し、上野、下野を通り奥州方面に向かったものと考えられているようです。この交差点の坂を少し上った傍らに影隠地蔵というお地蔵様があります。
⑦影隠地蔵
義高(義仲の嫡子)は、鎌倉から一路上道を北へと逃走しますが、入間川で追手に追いつかれた。そして、この地蔵尊の影に隠れて一時難を逃れたと伝えられているが、義高を哀れんだ土地の人が地蔵尊をその後建てたものと思われる。 (義高は八丁渡しで討ち取られたと言われている)
現在ある影隠地蔵は入間川の洪水等で位置を何度か移動したそうです。
奥州道の交差点、影隠地蔵の前の通りはその先は長い登り坂となります。この坂を「信濃坂」といいます。
⑧信濃坂の碑
昔信濃の国へ通じていたのでそう呼ばれたそうです。坂の下は奥州道でこの坂は信濃坂。 行く先の違う地名が同じ地に存在するのは、何かちょっと変な気がします。
さてこの先旧街道はこの信濃坂を上り北へと進みます。 現在の道は途中に智光山公園などがあり、日高市大谷沢までは舗装され拡張された車道になっています。
そして坂の西に少し行ったところに、今宿遺跡という縄文時代から平安時代の長きにわたる遺跡があります。
⑨今宿遺跡
旧鎌倉街道沿い、源義高の影隠地蔵がある信濃坂上に存在し、入間川左岸の河岸段丘を利用したと思われる遺跡です。
発掘調査されたのは昭和44年4月、48軒の竪穴住居跡が見つかり、3軒が保存(うち1軒は復元)されています。復元された住居近くにメタセコイア古木株の案内板があります。
今宿遺跡の石碑と案内板は公園内に設置されています。
住居が築かれた年代は、8〜9世紀で、奈良・平安時代の遺跡ということになります。住宅地の真ん中にこんな史跡があるなんて!
今来た道を戻ること30分で狭山市駅に到着。
⑥清水八幡宮 鳥居
⑥清水八幡宮 鳥居
⑥清水八幡宮 社殿
⑥清水八幡宮 社殿
⑥清水八幡宮 案内板
⑥清水八幡宮 源義高終焉の地標柱
⑥清水八幡宮 奥殿
⑥清水八幡宮 境内
⑦八丁の渡し
先に見える橋が本富士見橋。その周辺に浅瀬が見える。
⑦八丁の渡し
奥州道交差点
交差点名
⑧影隠地蔵 地蔵像
⑧影隠地蔵 地蔵像
⑧影隠地蔵 案内板
⑧影隠地蔵 風景
石橋供養塔
石橋供養塔
⑨信濃坂の碑
⑨信濃坂の案内板
⑨信濃坂風景
⑨信濃坂風景
⑩今宿遺跡 竪穴式住居跡
⑩今宿遺跡 竪穴式住居
⑩今宿遺跡 メタセコイア古木株
⑩今宿遺跡 メタセコイア古木株案内板
⑩今宿遺跡 石碑
⑩今宿遺跡 案内板
⑩今宿遺跡 風景
⑩今宿遺跡 風景
⑩今宿遺跡 風景
狭山市駅西口
木曽義高終焉の地「清水八幡宮」
R16沿い。小さく目立たない神社だが国道沿いに大きな銀杏が見える。
国道と反対側に3台ほど駐車できるスペースがある。
三角形の狭いスペースの神社。
「清水冠者源義高終焉の地」と書かれた看板。横に由緒。
低い鳥居を潜って正面拝殿、隣に大きな銀杏。
木曽義高は、木曽義仲の嫡男で源頼朝の娘婿。
頼朝から討ち果たされることを知った義高が、難を逃れるため嵐山町を目指したが、入間川で追手に討ち果たされてしまう。
当社は、義高の霊を祀るために入間河原に創建したのが始まりだとか。すぐ近くに大きな入間川がある。
絵馬があるけど授与所はない。
清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。
義高は源(木曽)義仲の嫡男ですが、源頼朝に人質として鎌倉に送られ、頼朝とその妻北条政子のとの間に生まれた娘、大姫の婿となっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義高は、自分にふるかかる難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町を目指して逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果たした地、入間河原に社を建てたということです。それが清水八幡宮ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われてます。
名称 | 清水八幡宮 |
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読み方 | しみずはちまんぐう |
参拝時間 | 24時間可能 |
参拝にかかる時間 | 5分 |
参拝料 | なし |
トイレ | なし |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
絵馬 | あり |
ご祭神 | 源義高 |
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ご神体 | 法体の義高がうちわを持って立っている像 |
創建時代 | 元暦元年(1184) |
本殿 | 流造 |
文化財 | 清水八幡(市指定文化財) |
ご由緒 | 清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。
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体験 | 武将・サムライ |
概要 | 清水八幡宮(しみずはちまんぐう)は埼玉県狭山市入間川にある神社である。旧社格は無格社。 |
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歴史 | 歴史[編集] 当社の創建は、祭神・源義高の最期が関わっている。『吾妻鏡』や旧入間川町(狭山市中心部)の総鎮守である八幡神社に残る諸伝によれば、寿永2年(1183年)に父・源義仲が挙兵して勢力を拡大し、それを危険視した源頼朝と反目して一触即発状態となった際、和議に応じた義仲により人質として息子の義高が鎌倉に送られたのが発端である。この際、義高は頼朝の娘である大姫の婿という名目で鎌倉入りすることになった。一種の政略結婚であったが大姫は義高を愛し、一時の平和が訪れた。 しかしその後に急速に義仲と頼朝の関係が悪化して合戦に発展、翌寿永3年(1184年)には義仲自身が近江国粟津原で討たれてしまう。...Wikipediaで続きを読む |
引用元情報 | 「清水八幡宮」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE&oldid=101555703 |
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