さやまはちまんじんじゃ
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楽しみ方狭山八幡神社のお参りの記録一覧(2ページ目)

西武新宿線狭山市駅から徒歩10分弱のところに居られます。
新田義貞公の信仰が篤く「新田の八幡様」と呼ばれていた時期もあったとか。
千鳥破風のついた入母屋造の本殿が見事で、結構近くで拝むことができます。
江戸時代後期のものと伝えられております。
境内はそこまで広いというわけでもないのですが見どころがギュッと凝縮されているという印象でした。
丁度時期的に七五三シーズンですのでお宮参りの家族連れでにぎやかでした。



大正10年生まれの狛犬さんです。

年季を感じる表情です。



獅子が竹を咥えています。今流行のやつですね(それは違う

波と鳥ですね、見事な彫刻です。

右側の獅子は鞠を持っています。狛犬に鞠は見かけますけど拝殿の柱の彫刻では珍しいですよね。


神楽殿の前は駐車場になっています。

新田義貞公が馬を繋いだと言われる松です。

1796年から7年を要して建てられたと伝えられる市の文化財にも指定されている本殿です。かなりスマートですよね。

そして彫刻が見事ですよね。彫刻を施した作者さんの名前も残っているのは珍しいようです。

龍、獏、獏、獅子、みたいな感じでこんなに並んでるのも珍しいのでは?






これは浦島太郎ですかね?

手水舎です。

鳥居をくぐってから石段の雰囲気がまた良いですね。

中段より上が47段、下が24段あるそうで、上段は赤穂47士、下段は中国の故事24孝からきているそうです。


狭山市の神主さんが、常駐している神社です。

御朱印帳です

新田義貞の馬を止めた木です。

一ノ鳥居

過去の記録です

御朱印帳です

拝殿と祭殿

創建は室町初期とされてます。新田義貞が鎌倉幕府討伐の際、必勝祈願したそうで、境内にはその時に馬を繋いだという「新田義貞駒つなぎの松」があります。新田八幡とも称され、入間川村の鎮守社だったといいます。こちら神社の本殿、形がとても変わっていて一見の価値あり。享和二年(1802年)に建てられたもので、狭山市の文化財に指定されています。境内には八雲神社、思兼神社、琴平神社など境内社が複数ありました。またじっくりと訪れたい神社です。次回は御朱印もいただかないとです。
(境内社由緒はHPより引用しました。)

鳥居

拝殿

拝殿

拝殿

狛犬

狛犬

本殿

本殿

本殿

本殿前
「新田義貞駒つなぎの松」…根元のみ残っているようです。

本殿説明

入間川神社
ご祭神:日清戦争から第二次大戦までの数次にわたる戦役で、国に殉じた軍人・軍属と、入間川町の発展に貢献した文化人の御霊
由緒:第二次大戦の終結により、取り壊しの運命にあった当時の奉安殿を、町民の勤労奉仕によって境内地へと移された。

大鷲神社
ご祭神:保食命(うけもちのみこと)
由緒:元来花柳界の人々によって信仰されていたが、明治初年に開設された入間川市場の繁栄を願って祀られた。

琴平神社
ご祭神:崇神天皇
由緒:昔、暴風雨の中を漂う漁船を、天狗の姿となって海を鎮め救助したという伝えが、航海守護、大漁祈願の信仰を生み、今日では商売繁盛、五穀豊穣の信仰へと発展している。社殿は近年改築されたものであるが、御鎮座は300年前と伝えられている。

思兼神社
ご祭神:八意思兼神・聖徳太子
由緒:八意思兼神は、八百万の神々の知恵を一身に兼ね備えていたという。また、聖徳太子は同時に数多の民衆の意見を聞き分けたと伝えられ、共に英智の神として崇められている。さらに聖徳太子は、当時の乱れた世の中に仏教を広め、全国に寺院の建立をうながし国民生活の安泰をはかったという。その徳を慕う民衆、建築に携わった匠たちがこれを称え、建築の祖神として今日に受け継がれている。その技術革新の信仰が広く、工事関係者の間にまで伝えられている。

八雲神社
ご祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)
由緒:江戸時代まで牛頭天王と称されていたが、明治初年に八雲神社と改められた。創建は徳川三代将軍よりご朱印地を賜っており江戸初期あるいはそれ以前とされ現在の社殿は文政7年(1824年)の建築である。夏季例大祭で巡行する御神輿は、この社殿に納められており、安永2年(1773年)の造営で重量400kg。屋根には社紋の巴と寺紋の卍が施され、その古さを伝えている。

神楽殿

鳥居
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