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わらびじんじゃ

和樂備神社の御由緒・歴史
埼玉県 蕨駅

ご祭神《主》誉田別尊
《相》素盞嗚尊・天照大神・木花咲耶姫命・天津児屋根命・猿田彦之命・大山咋命・大山祗命・蕨城主渋川公・菅原道真・倉稲魂命
ご由緒

当社は、明治四十四年(1911)に蕨町の村社八幡社に町内の無格社十八社を合併して、社号を「和樂備神社」と改称した。
 八幡社の創建は明らかでないが、社伝によると蕨を所領とした足利将軍家の一族、渋川氏が蕨城を築き、八幡大神を奉斎したことがはじまりであるという。「渋川直頼譲状写」(賀上家文書)には観応三年(1352)渋川直頼から嫡子金王丸に譲られた所領として「武蔵国蕨郷上下」と記され、「鎌倉大草紙」には長禄元年(1457)曽祖父渋川義行が蕨を居城とした関係で、孫の義鏡が室町幕府から関東下向を命じられた旨の記述があるうこと、当社境内南の隣接地は、蕨城跡として埼玉県の旧跡に指定されていることからも蕨と渋川氏の結びつきを知ることができる。また当社の御神像である「僧形八幡立像」(蕨市指定文化財第十二号)にも天正十一年(1583)の墨書銘があって、当社の成り立ちとの関連をうかがわせる。
 江戸時代に八幡社は、「上の宮」と呼ばれ、三学院末の成就院が別当として祭祀を掌り「中の宮」(氷川社)、「下の宮」(氷川社)とともに蕨宿鎮守三社として最も重きをなした。
 明治となって八幡社は、同六年に蕨宿の村社に列せられ、同四十四年の合併によって社名社号を和樂備神社に改称した後、第二代蕨町々長岡田健次郎氏を中心に蕨にふさわしい神社にするべく整備を進めた。特に植樹については、東京帝国大学教授の本多静六林学博士を当地に招き、指導を受けた。和樂備神社が八幡社から継承した時点の境内地は、付属山林も含めて三百八十二坪であったが、町長自らも土地を手当てするなどして千百十一坪に拡張し、前庭など六百七十八坪を合わせると千七百八十九坪を誇る景観が姿をあらわした。
 大正十二年には埼玉県より「神社境内拡張」の許可を受け、内玉垣内を境内地に編入して前庭などと合わせて今日の境内にあたる風致景観の原型が完成をみて、翌十三年には埼玉県より「神饌幣帛料共進神社」の指定を受けることとなった。
 この後、昭和二十一年(1946)に国の管理を離れ、同二十八年に宗教法人法に基づき「和楽備神社」と登記され、平成三十一年に「和樂備神社」と改称された。

歴史
歴史[編集] 創建から江戸時代までのことは、別当寺を務めた三学院末成就院が廃寺となったために明らかでない。社伝によれば、室町時代に足利将軍家一族の渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡神を祭ったのが始まりとされる。一方、「世鏡伝記題臨書」[1]によれば、永正8年(1511年)に鎌倉の住人、成田隼人正が祭ったとする。また、本殿に安置された神体(木造僧形八幡立像)の台座に天正11年(1583年)の文字が薄く残されている。 江戸時代に蕨宿が整備されると、「蕨八幡」「上の宮」と呼ばれ、中の宮(宮田 氷川社)、下の宮(荒井前 氷川社)と共に蕨宿三鎮守として重きをなした。 明治6年(1873年) ...Wikipediaで続きを読む
引用元情報和樂備神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%92%8C%E6%A8%82%E5%82%99%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=97378139

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